金一封を差し上げます。 04


 はっと顔を上げると、涙で滲んだ視界に長身な男が映っている。阿古哉も顔のわりに長身だが、彼はその阿古哉よりもさらに大きいように感じた。体格のせいか、垂れたそのまなじりのせいか、優しげでおおらかな印象を受ける男だった。
「あ、有馬さん」
「大きな声がしたから、なにかと思って来てみたんだけど……」
 そう言う彼の手には、花壇の世話でもしていたのだろうか、じょうろが握られている。彼の見た目に対して、それはやたらと不似合いに見えた。阿古哉と同じ白い制服を着ているところを見ると、生徒会役員のようだった。
 は、焦った声を出す阿古哉に驚いていた。なんだか今日は阿古哉の知らないところばかりを見ている気がする。もしかしたら、見ないようにしていただけだったのかもしれないが。
 有馬と呼ばれた彼は、に視線を移した。目があったことに驚いて、あわててうつむくように視線を外す。
「阿古哉が女の子を泣かしている」
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでください! 勝手に泣いたんですよ!」
「その言い草はどうかと思うなあ。女の子は勝手に泣かないよ。ごめんね、阿古哉がなにか不躾なこと言ったんだろ」
 後半はどうやらに向けた言葉のようだが、はうつむいたまま、体をかたくしていた。阿古哉が小さく「おい」と言ったのが聞こえたが、言葉を返すどころか顔を上げることさえできなかった。
「僕、なにか失礼なこと言った?」
「狭間野の生徒なんですよ」阿古哉はイライラした声で言った。「ビビってるんです」
「ああ、どうりで。狭間野の女の子がこんなところにくるなんて、よっぽど冒険心が強いんだな。彼女とは知り合い?」
「不本意ですけどね」
 有馬は興味があるんだかないんだかよくわからない低い声で「そう」と言った。その声音が友人とそっくりだったので、おそるおそる顔を上げる。再び目が合うと、有馬は浮かべていた微笑みをさらに深くした。たしかに優しい笑みに見えたが、先ほどの声のことを考えると、少しちぐはぐな印象を覚えた。
 有馬は思いついたように自らのポケットから紺色のハンカチを取り出した。「彼女に渡してあげて」と、有馬は阿古哉にそのハンカチを手渡した。阿古哉は不機嫌そうに横目でを見たあと、ハンカチをに押しつける。はハンカチくらい持ってきていたが(婦女子のたしなみとして母に厳しく言い聞かせられていた。今日は使用人に頼んで母にも内緒で出てきたのだが、ハンカチは忘れなかった。もはや癖だ)、さすがになにも言わなかった。
 涙がかわきかけた頬にハンカチをあてる。阿古哉がきちんと従っているところを見ると、やはり彼も上流家庭の出なのだろう。ハンカチもかなり上等なもののようだった。
「本当は関係者以外、特に女の子は入ってはいけないんだけどね。阿古哉の知り合いみたいだし、錦史郎には黙っててあげるよ」
「お優しいことですね」
「そんなに褒めるなよ」
 阿古哉は不本意極まりないといった顔だったが、一応有馬に礼の言葉を述べた。
「送っていってあげたら。錦史郎には適当に言い訳しとくよ」
「わかりました。三十分ほどで戻ります」
 答えるやいなや、阿古哉はの腕をつかんで引っぱった。その力が存外強く、バランスを崩しかけながらは阿古哉の背を追う。背後を振り返ると、有馬がひらひらと手を振っていた。
「ハンカチ、洗ってお返しします! あの、ありがとうございました!」
 それだけ言うのがやっとだった。阿古哉はずんずんと先に進んでいく。腕をつかむ力が強くなるのを感じた。
 校門を出て長い階段を無言でおりきったあと、阿古哉はようやくの腕を離した。かなりの時間腕を引かれていたためか、鈍く痛む。
「さいっあく! 草津会長じゃなかっただけましだけど、有馬さんに見つかるなんて。お前がぎゃーぎゃーわめくから……」
 阿古哉はそこで言葉に詰まったようで、ばつの悪そうな顔をしてから「駅までだからな」と続けた。


* * *


「ばっかじゃないの」
「おっしゃるとおりです」
 週明けの月曜日、は友人が小声で罵るのを甘んじて受け入れた。今日は数学の小テストが実施される予定で、友人と二人で範囲を確認していたところだった。クラスメイトが二人のやりとりを聞いていたら、きっとまたが解答を間違えたのだと思うだろう。
 実際のノートに書かれた解答が間違っていたので、結局直すことになった。ペンケースを開き、おや、と思う。いつも使っている消しゴムがない。
「その幼馴染の知り合いが黙っててくれなかったらどうなってたか、あんたわかってんの?」
 友人は周囲をうかがいながら言った。男子校に忍び込んだなどと、その辺のクラスメイトの耳に入れたら学校中で噂になる。果ては教師、の家族の耳に入ることにもなるだろう。あそこで有馬に見逃してもらえたのは、非常に運がよかったといえた。日が経って冷静になったは、阿古哉が怒るのも無理はない、と振り返ることができるまでになっていた。
「ハンカチ、洗って返すとは言ったけど、どうやって返そう……」
「幼馴染に預ければいいでしょうが。自分の先輩のハンカチを八つ裂きにするほど常識がないわけではなさそうだし?」
「たしかに、そうかも」
「これを機にその幼馴染と仲良くしてみたら」
「それはむり」
 予備の小さな消しゴムで間違った解答を消しながら即答した。
 阿古哉はたしかに正しかったし、感情的になってわめき散らしたことに関しては深く反省していたが、それとこれとは別問題だった。の感情を「低俗」として切り捨てたことを、はしっかりと根に持っていた。それに、わざわざ友人には告げないが、十年に及ぶブス呼ばわりの根もまた深い。
「駅まで送ってくれたんでしょ」
「先輩に言われたからしぶしぶね。マスコミ研究会からのメールはまだ続いてるの?」
 はすげなく言ったあと、話をそらすために友人がなるべく感情的になりそうな話題を振った。
「……あいつからのメール、ずっと中身見ないで即消してたんだけど」友人は思いきり顔をしかめた。「こないだ操作ミスで中身開いちゃって」
 なんとマスコミ研究会の城崎は、ほとんど嫌がらせともいえる毎日のメールにも、ドン引きするほどの長文を載せていたのだった。そこには当然友人の逆鱗に触れるような文章があって、結局怒りに任せて返信してしまったのだそうだ。ありそうなことだなとは内心苦笑した。
「ぐやじい」
 城崎に対する憤りと、無視するべきだとわかっていたのに自制がきかず反応してしまった自分に対する憤りで友人は破裂しそうだった。
「あとそこまた間違ってるよ」
「あれ?」


* * *


 はみたび、眉難高校の最寄駅に立っていた。校舎に忍び込むためではない、今度こそ鳴子硫黄に直接手紙を渡すためだ。
 もともとあの計画が失敗したら直接渡そうと思っていたのだが、阿古哉に散々吐かれた暴言が想像よりも深くの心に刺さっていた。それに、阿古哉以外の男に対してあまりにお粗末な対応しかできない自分にも嫌気がさしていた。阿古哉の先輩に対して目を合わせることすらできない自分が、間接的な方法で鳴子硫黄に手紙を渡したところで、そこから先につながるものがあるとは思えない。の手紙は即時的な自己満足ではなく、と鳴子硫黄とをつなげる可能性にしたかった。直接渡すことができればきっとその道を開くことができる。はずだ、と思う。
 今度は最初に来たときと同じ、サマジョの制服姿だった。やはり好奇の視線が突き刺さる。それでもは胸を張って歩いた。眉難高校への道のりも、すでに歩くのは三度目だ。あの長い階段をまたのぼるのかと思うと多少うんざりしたが、慣れた足取りで眉難高校へ向かう。
 以前水を購入したコンビニエンスストアを通りすぎようとしたとき、消しゴムが行方不明だったことを思い出したのは本当に偶然だった。自宅でペンケースから出した記憶もなく(これは完全に言い訳だが、この土日は眉難高校でいろいろあったので勉強どころではなかった)、きっとこれは自宅を捜索しても無駄だろうという確信があった。これは消しゴムという文房具にはよくあることで、捜しているそのときには出てこないし、諦めて新しいものを買ったその数日後くらいにひょっこり出てくる、そういう魔力を秘めた文房具なのだ。
 今日の小テストは予備の消しゴムでなんとか乗り切ったけれど、明日も小テストが実施される科目がある。予備の消しゴムは小さすぎて使いにくいし、安物でもいいから消しゴムを調達しておくべきかもしれない。
 コンビニの棚には一種類の消しゴムしか置いていなかった。価格を見て、あまりの安さに感心する。よく見れば、他の文房具もとても安価だ。友人がコンビニスイーツ好きでよく付き合いで買うことがあるが、それ以外を目的に来たことがなかったは、ものめずらしげに棚を眺めた。危うくここら一帯の品物をすべてお買い上げしそうになったがさすがにやめた。
 青と白と黒を使ったシンプルなデザインのスリーブ。ビニールに包まれた本体は力を入れると弾力を感じる。お値段九十八円(税込)なり。自動販売機で買う飲み物よりも安いじゃないか。薄利多売とはいえどうやって利益を出しているのだろう。心底不思議に思いながらレジに向かおうと足を一歩踏み出したとき、コンビニの自動ドアが開いた。
「そこの女!」気の抜けた入店音とともに、男の声が響く。
「その手に持っているものはなんだ!」
「はい?」と、がコンビニの入り口に目をやると、信じがたい光景が広がっていた。
 着ぐるみだった。コンビニの入り口に着ぐるみが立っている。青白黒の三色しか使われていない──ちょうどがたった今手にしているもののような──ゆるキャラじみたデザインの着ぐるみだ。首と胴体のあいだにくびれのようなものはなく、まあ手足が生えるならそこだろうなという雑な位置に腕と足がにょきっと生えている。腕の位置がすこし下すぎるかもしれない。腕にも足にも、なぜか毛羽立ったような様子があった。目はつり目なのか三角のような形で、これもまた雑な位置についており、左右の高さが違っていた。全体的に子どもの落書きのようなデザインだった。
 もレジに立った店員(以前に声をかけてきたおじさんだ)も、驚きで動けずにいた。店員がかろうじて「いらっしゃいませ」と口にしたが、着ぐるみは意に介す様子もなくなおもに言葉を投げかけた。
「その手に持っているものはなんだと聞いている!」
 明らかにいらだっている。ゆるキャラってしゃべってもいいんだっけ、と思った。
「……ええと、あの」
「消しゴムだな!?」
「そうです」
「なぜ消しゴムを買うのだ」
 思わず「えぇ?」と聞き返してしまう。非常に哲学的な質問だ。人はなにゆえ消しゴムを買うのか。は目を泳がせた。
「明日テストがあって、でもいつも使ってる消しゴムが見当たらないから、それで」
「キィィィィィィィッ!」
 突然着ぐるみが奇声を上げたので、店員のおじさんが悲鳴のような声を出した。はとっさに耳を塞いだ。着ぐるみは頭(少なくとも目がついている辺りなので「頭」という表現で間違いはないはずだ)を抱えて、苦しむように体を悶えさせている。そういえば、中の人間がしゃべっているにしては、やけに声がはっきり聞こえる気がした。
「だめだ、だめだだめだ! 血も涙もない非人間め、その消しゴムをよこせ!」
 着ぐるみの腕が突然のほうに伸びてきた。ぎょっとして身を引こうとしたが、不自然に毛羽立った腕がの腰に巻きついたためかなわなかった。そのまま体を持ち上げられて、足が地面を離れる。
「えっ、ちょっと!」
 もろとも消しゴムを手中に収めてしまった着ぐるみは、の抗議の声を無視して、消しゴムが陳列された棚を一瞥した。を抱えていない方の手で、並んだ消しゴムをすべてわしづかみ、なんと口の中に放り込んでしまった。
 ――――口?
「な、なんで着ぐるみに口が」
「さあ、お前がその手に持っている消しゴムもよこすのだ」着ぐるみがなにか言っている。
「腕もなんか変な手触りだし、なんなのこれ……」
 この着ぐるみの腕と足は、一体なんの素材でできているのだろう。明らかに布ではないその手触りに、にわかには現実を受け止められなかったは呆然とした。
「おい、無視をするな。お前のような愛のない人間が手にしていいものではないのだ。さあはやくこちらによこせ!」
「ちょっと待ったあ!」
 また気の抜けた入店音が響き、やけに高い声が入ってきた。
 が顔を上げると、コンビニの入り口には再び異様な光景が広がっていた。人間が五人立っているのだが、顔の部分にモザイクがかかっていて、どんな顔なのかまったくわからない。首から下はきちんと認識することができる。体格を見ると全員男のようだが、服装がひらひらふわふわ、まるで女児向けアニメのようなデザインだった。が「これなんかのロケなの?」と思ったのも無理はなかった。
「消しゴム怪人! その女の子を離すっす!」
 五人の中心にいる人物が、こちらを指さして叫んだ。やけに高いと思ったのは、どうやらボイスチェンジャーで声が変換されているからのようだった。
「購買の消しゴム全部食いやがって! 新しいやつ買えないじゃねーかよ!」
「あなたは買えなくても私のを借りるだけでしょう」
「そりゃそーだけど、いつでも調達できるって安心感ないとなんかやだろ」
「なんですかそれは」
「あーなんかそれわかるわ」
「えんちゃ……じゃなかった、セルリアンとヴェスタはそういうところ感覚似てるよね」
 他の人物たちも思い思いにしゃべっている。完全に雑談だ。
「ほしいと思ったときに限って売り切れとかさあ。消しゴムなんかどこにでも売ってるしそんな状況滅多にないけど、このまま怪人に食われ続けたらありえない話じゃなくなるだろ」
「うーん、たしかにね」
「そう、お前たちはもっと消しゴムのありがたみを知るべきなのだ! さすれば、簡単に折ったり紛失したりなんてことは起こらなくなる。すべては消しゴムに対する愛が足りないことにある!」
「おお、雑談に割り込んできたぞ……」
 五人は各々デザインの違う短い杖のようなものを構えた。
「めんどくさいけど、ちゃっちゃと倒しますか」