金一封を差し上げます。 03


 は、私服姿で眉難高校の最寄駅に立っていた。天気は非常に良好で、まだ午前中だというのに日差しが強い。帽子を持ってきたのは正解だった。日焼け止めもバッチリ塗ってきたし、これで肌がヒリヒリするようなことはないだろう。眉難高校に向かう長い長い階段をのぼるには、このくらいの用心が必要だろうと思ったのだ。
 帽子を目深にかぶり直す。今日のの使命は、眉難高校に忍び込み、鳴子硫黄の靴箱に手紙を投函することだった。
 友人には話さなかった。この計画が無謀であることは百も承知だったからだ。言えば止められるだろうし、友人を説得できるだけの材料もの手元にはない。だって無謀だということはわかっている。ただ、このまま手紙をの自己満足で終わらせてしまうのはどうしてもいやだった。
 これが失敗したら、観念して直接渡すから……。
 許しを乞うように胸中でつぶやいて、は歩きだした。
 今日は土曜日で、以前きたときと比べると明らかに人が少ない。制服ではないので好奇の視線にさらされることもなく、はずんずん歩いていった。気まずさがないという意味では快適だったが、気温に関してはとてもじゃないが快適とはいえなかった。送迎もなしにこの道のりを毎日歩くのは正気の沙汰ではない。
 地獄のような長い階段をのぼりきると、やっと校舎の全貌が見えた。美意識の高い幼馴染が選んだだけあって美しい建物だ。それに大きい。サマジョの校舎は由緒ある趣きだが、改修工事を繰り返しているとはいえ古くささは拭えない。歴史があるとはそういうことなのだ。
 グラウンドから、運動部が練習する声が聞こえる。土曜日に活動していることはすでに調査済みだった。今日のは、運動部に所属する友人の練習をこっそり見にきた他校の女子生徒である。もちろん眉難高校に友人などいないのだが、クラスメイトが眉難高校に男友達がいるという話を自慢げにしていたのを覚えていた(サマジョの生徒にとって、「男友達」という響きはとても魅力的なのだ)。たしか堂本という名前で、陸上部に所属していたはずだ。
 顔も知らぬ堂本に謝罪しながら、帽子をしっかりとかぶり直し、敷地内に足を踏み入れる。校門を入ってすぐ、隣にグラウンドがあった。幸い練習が盛んに行われており、誰かがこちらに顔を向ける気配はないようだ。遠目から見たときに女と即断できないようにできる限りの格好をしてきたつもりだが、見られないに越したことはない。
 こそこそとグラウンドを横切り、校舎の入り口にたどり着いた。緊張から心臓がばくばくと音を立てている。下駄箱を見ると、「三年A組」と掲示されていた。数からしてここに二年生の下駄箱はないようだった。落胆したは、別の入り口を探そうと外の様子を伺った。誰もいない。こんなにもうまくことが運ぶものなのだろうか? 心の奥にじわりと滲む不安感を無視できず、は深呼吸をすることでなんとかごまかそうとした。
 校舎を壁伝いに移動していくと、二つ目の入り口を発見した。先ほどの入り口とは別棟に位置している。中を覗き込むと、どうやら一年生と二年生の下駄箱のようだ。なるほど、校門から最も近い入り口は最上級生が使い、遠い入り口は下級生が使っているらしい。サマジョは生徒数があまり多くないため、入り口は一つしかない。
 鳴子硫黄は二年B組である。インタビュー動画で蔵王立がたしかにそう言っていた。下駄箱の一つ一つに目を向けると、番号が振られていて、名前は書いていなかった。この中から鳴子硫黄の靴箱を特定しなければならない。上履きのかかとの部分を見て回る。たしか、由布院煙はかかとをつぶしていたが、鳴子硫黄はつぶしていなかったはずだ。多少の手がかりにはなるかもしれない。
「そこのお前!」
 驚きで身がすくんだ。心臓が一瞬破裂するように痛み、すぐに早鐘を打ちはじめる。鋭さを持ちながらも上品な声だった。いつの間にか、下駄箱に面した廊下に男が立っている。
「休日でも登校するときは制服を着用するのが規則だよ。部活はどこ? 何年生? 顧問と担任に報告するから、クラスと名前も」
 白い制服に身を包み、つややかな長髪を惜しげもなく背中へまっすぐ流している。背筋が伸びていて、凜とした雰囲気のある男だ。顔が驚くほど整っていた。は思わず帽子のつばを握りしめた。
 男が顔を怪訝そうに曇らせる。
「返事くらいしたら? べつにとって食おうってわけじゃないんだから……」
 は返事どころか、顔を上げることすらできない。男が近づいてくるのが音でわかったが、ただただ身をかたくするばかりだった。
「見たところ一年生? 僕のこと、知らないわけじゃないよね?」
 男の手が肩に触れる。さすがに違和感に気がついたようだ。え、と息を飲む気配があった。
「…………?」
 名前を言い当てられる。冷や汗が背中をつたう感触がした。
 彼こそ、の折り合いの悪い幼馴染、下呂阿古哉その人であった。

「なにその格好」と、阿古哉はまず、の格好を見とがめた。
「男の格好でもしたかったわけ? ブスがさらにブスになるよ」
 阿古哉の視線が、の頭から足まで、一往復した。肩まで伸ばした髪は帽子の中にしまわれていて、上下はパーカーにジーパンと非常にラフな姿だ。普段はほとんどしない。母がいやがるからだ。まかり間違ってもブスになるからではない。
 昔から、阿古哉はのことを「ブス」と言ってはばからなかった。もちろん、の両親の前では決して口にはしなかったけれど、二人きりになれば必ずといっていいほどその言葉で謗られた。歳を重ねれば重ねるほど、阿古哉への苦手意識が強くなっていったのは、そういう事情があってのことだった。いくら幼馴染とはいえ、顔を合わせれば罵られるとあっては、誰であっても好きこのんで仲良くなろうという気は起きないものだ。
 阿古哉は自らの髪を指でくるくるともてあそびながら、意地の悪い顔をしている。
「黙ってないでなんとか言ったら。弁解くらい聞いてあげるよ。どんな言い訳を用意してきたの? まあ、僕のほかに眉難の知り合いなんていないだろうけどね。なんなら名前を言ってごらんよ、学年と名前、部活も。ここに連れてきてあげるからさ」
 は黙ったままだ。阿古哉もはじめから弁解のしようもないことは理解しているのだろう。だんまりなにわざとらしくため息をついた。
「せめて目的くらいは吐きなよ」
「…………手紙を」はやっと口をきいた。
「ある人に、手紙を渡したくて」
「手紙?」
 阿古哉は柳眉をつりあげ、不愉快そうな顔をした。幼い時分からいやになるほど見てきた表情だ。
 女が男子校に忍び込み「手紙を渡したい」だなんて、簡単にその内容が知れるというものだった。いささか馬鹿正直すぎたかもしれない。
「そんなことのために?」
 驚くことに、どういうわけか阿古哉は怒っているようだった。は、阿古哉が自分に対して怒るところをはじめて見た。
 の考え得る限り、阿古哉が怒るなどということはありえない現象だった。阿古哉には常により優位に立っているという強い自覚があり、ごときの行動に怒る必要などなかったからだ。阿古哉にとってはとるにたらない、美しいわけでも才覚があるわけでもない、ただ母親どうしが親しいというだけの存在にすぎない。不愉快に思うことはあれど、怒るに値する価値もないと判断されていたはずだった。
 阿古哉の怒りに触れることはあまりにも未知数で、は怯えるように足を一歩引いた。かかとが下駄箱に当たる感触がする。
「ブスはブスなりに分別はわきまえてると思ってたのに……おば様はさぞお嘆きになるだろうね、一人娘がこそこそと男子校に忍び込んだだなんて知ったら」
 阿古哉はの家や学校の品位が損なわれるような行動を起こしたことに怒っているのだ、ということに気がつき、ははっと息をのんだ。阿古哉が言うところの「分別」を、はたしかに持っていた。今回のことについても、相手があの鳴子硫黄でなければ、の分別は問題なく機能しただろう。普段であれば絶対にしない行動を起こしたのは、相手が鳴子硫黄で、が彼に本気で近づきたかったからだ。
 いまのいままで頭のすみのほうに押しやられていた分別が戻ってきて、は目が熱くなるのを感じた。顔が紅潮して、なにかをこらえるように唇を噛む。そうしないと、いまにも泣き出してしまいそうだった。を揺さぶるこの感情が、怒りなのか恥なのか、はたまた悲しみなのかにはわからなかった。
 顔をうつむかせるをどう捉えたのだろう、阿古哉は鼻で笑って追い打ちをかけた。
「いっときの低俗な感情にのぼせあがって行動するなんて美しくない。どんなくだらない男に執心してるのか知らないけど、お前みたいなブス、誰だって相手にするもんか」
 この言葉で、を揺さぶる感情は怒りただ一つになった。
「撤回して!」
「は?」
「いまの言葉! 撤回して!」
 戻ってきたはずの分別は、再びどこかへ押し流されてしまっていた。
「わたしが好きになったのはくだらない男なんかじゃない! 低俗な感情だなんていわれる筋合いもない! ぜんぶ阿古哉のいじわるだ! 昔っからそうだもん!」
 とうとう涙がこぼれ出た。阿古哉が驚いた顔をしている。それでもは、阿古哉をまっすぐに睨みつけた。
 阿古哉はいつもそうだった。のやることなすことを、すべて浅慮と決めつける。
「わたしはそりゃブスだし、相手にしてくれないかもしれないし、阿古哉に言われなくたってそんなことわたしだってわかってるけど! わかってるからって諦めらんないんだよ!」
 爆発した怒りが、だんだん悲しみに変わっていくのを感じた。阿古哉の言う通り、手紙が鳴子硫黄の手に渡ったところで、を相手にしてくれるかどうかはわからない。怪しまれるかもしれないし、うっとうしいと思われるかもしれないし、もうすでに好い人がいるのかもしれない。わかっていた。阿古哉は正しい。それでもせめて、手紙を渡したかった。
「阿古哉のばか……ブスっていわないでよ……」
 昔から抱えていた文句をついでとばかりに吐き出して、は手で顔を覆った。一旦流れだした涙はとまらなくなっていた。の喉からはしゃくりあげるような音がするだけで、言葉は出てこない。
「なに、ブスも撤回しなきゃいけないわけ」困惑しきった声音で阿古哉がつぶやいた。
「何年分あると思ってんの。ちょっと、泣くなよ……ねえ、
「こんなところでなにしてるの、阿古哉」
 阿古哉がの肩に触れようと手を伸ばしたとき、のんきに割り込んだ声があった。