馬鹿と滑瓢は使いよう 02
閻魔大王第一補佐官、鬼神鬼灯の朝は早い。早いどころか前夜からの延長戦であることも少なくはないのだが、本日に限っていえば、きちんと睡眠をとった上での朝だった。
どの獄卒よりも早く出勤することが、もはや癖になってしまった。千年単位で続けていれば無理もなかろう。もともとは下に示しがつかないからという理由ではじめたことだったが、現在は休みだろうが睡眠不足だろうがお構いなしでおなじ時間に目が覚める段階にまで足を突っ込んでいる。仕事中毒、大いに結構。すくなくとも、記録課の連中よりは格段に健全に生きている自信がある。まぁ鬼灯はすでに死んでいる身なのだが。地獄産の鬼とは違って鬼灯の身体は死んだ人間のものなのだった。
静けさに包まれた執務室で、今日の裁判の予定を確認する。ここ最近の日本は人口減少期に突入していて、死者の量は昔の比ではない。一日平均に換算すればとうとう三千人を超え、毎日千人を殺すというイザナミの宣言はとうの昔に現実のものとなっていた。裁判の簡略化や、転生させる基準をもっと緩めたらどうかという声も上がりはじめているほどだ。こればかりは裁判の根幹にかかわることだけに、閻魔大王だけでなく他の十王の腰も重い。鬼灯もなるべくなら手をつけたくないところである。そう簡単に許される罪などあってはならないからだ。
かすかにノックの音が聞こえて、鬼灯は顔を上げた。来訪を告げる気がないのかと思うほど控えめなノックだった。
「どうぞ」
再び手元の書類に目を落として返事をする。これまた控えめにドアが開かれて、直後小さな悲鳴が聞こえた。
「ぎゃぶっ!?」
びたん、という間抜けな音もきちんと聞き届けて、鬼灯は立ち上がった。机に立てかけていた金棒を掴んで、部屋のドアを振り返ると、そこには床に這いつくばる小鬼の姿がある。
「鬼のくせにちんけな罠にかかるものですね。おはようございます、さん」
「お、おはようございます……鬼灯さま」
「鼻血出てますよ」
体を床に横たえたまま顔を上げたは、鬼灯の指摘に慌てて鼻をおさえる。顔から転んだらしい。小鬼は骨格が子どものそれに近く、他の種族に比べて頭が重いのでこういうことになる。それを見越して罠だったのだが、見事にひっかかるものだ。とはいっても、ドアを入ってすぐのところに縄を張っただけの簡素なもので、他の小鬼が仮に引っかかったところでバランスを崩す程度で済むことだろう。すっ転ぶのは桃源郷に住む呑気な神獣様くらいだと思っていた。
「さん」
「は、はい……!」
むかつく顔を思い出し、若干空気を重くした鬼灯が名を呼ぶと、は慌てて床に正座した。手持ちのポケットティッシュでなんとか鼻血は収まったらしい。地獄の獄卒がちり紙を持ち歩くのはなんだか間抜けだが、鬼だろうとなんだろうとエチケットはエチケットである。
肩に担いでいた金棒を、床に突き立てるようにして振り下ろす。閻魔庁の床はかなり頑丈なつくりだが、これには鈍い悲鳴を上げた。小鬼もかわいそうなほど体を震わせて、おろおろと視線を泳がせている。
「私がなにを求めているか、おわかりですか」
「も、ももも申し訳ありませんでした!」
「それは一体なんの謝罪か言ってみろ」
「さっ、昨日食堂で、戦線離脱した挙句、午後も逃げ回っていたしゃじゃ……さ、しゃ、謝罪です」
「噛んだのでもう一度どうぞ。さんはい!」
「ゆるしてください~……」
復唱を求めて掛け声とともに柏手を打つと、とうとう涙声で許しを乞うてきた。少々溜飲が下がったので、金棒の持ち手側の先に両手を重ねたまましゃがみこむ。視線を合わせると、泣きそうなのがよくわかる。
「一つお聞きしますが、あの唐揚げは詫びのつもりですか?」
「あれは……その、た、食べ切れなかったので」
はいそうですお詫びのつもりでしたとは言わないのが、この小鬼の馬鹿なところだ。
「あなたのそういう、正直で打算を知らないところは嫌いじゃありませんがね。というか、その前にも一つ食べてあげたでしょうが」
「ごめんなさい……」
「あの唐揚げは茄子さんが引き取ってくれましたよ」
「ごごごごめんなさい……!」
「その謝罪は茄子さんにしてください」
できるものなら、ですが。頭を床にこすりつけ、完全に土下座状態になったににべもなく言い放つ。返事はなかった。鬼灯はどっこいしょと立ち上がり、再び金棒を肩に担ぎ直した。に背を向け、机上の書類をまとめる。
「それにしても、その体質は筋金入りですね。あなたの御尊父はもう少しましだったような気がしましたが。本当は呪いでも受けているんじゃないですか?」
「ど、どうでしょう」
机に置いてあった書類の束を、の業務に関係あるものとそうでないものにより分けていく。鬼灯自身はすでに目を通してあるので問題ない。
「あなたが戦線離脱したあと、お二方ともあなたの存在を思い出せなくなっていたんですよ」
「定期的に接してないと、忘れられること、けっこうあります」
「あるんですか」
「鬼灯さまもなってました。はじめのころ、ですけど」
「それこそ忘れましたね、そんな昔のことは。ああこれ、いつものやつです」
振り返り選別した書類を差し出す。がおずおずと手を伸ばしかけたところで手を離してやると、特に固定されていなかった紙類はバラバラに床へ落ちていった。こんな地味な嫌がらせをされるとは想像もしていなかったは、一瞬なにが起こったのかわからない顔をして、ようやく慌てて書類をかき集めはじめた。
「クリップならその辺にあるので、ご自由に」
とは言ったものの、結局クリップをさがしておろおろうろうろしていたので、見兼ねてクリップを投げつけることになった。
「ええと、あのう」
「なんですか」
がなんだかもじもじしている。鬼に年齢は関係ないとはいえ、この小鬼も御歳数百。果たして許されるのかどうかは個々人の判断にもよるが、鬼灯としてギリギリアウトくらいの感覚である。苛立ちに任せてぶちたい気持ちではあったが、大人げない嫌がらせもしてしまったし、泣かれるとちょっとめんどくさいし、とりあえず返事を待った。
「その、お気遣いはたいへん、痛み入るところではあるのですが」
「ハァ」
「わっわたしは、いまのままでも、十分だと思っています、ので……」
「なにを勘違いなさっているのか知りませんが、あなたの私的な交友関係に手を出すつもりは微塵もありませんよ」
「へっ」
「私以外にもあなたを認識できる方が増えたら、仕事の効率がよくなるんじゃないかと思ってしただけです。茄子さん、ちょっと素養ありそうだったので。あとはただの興味本位です」
実際、戦線離脱されたことには怒りを禁じ得なかったものの、自己紹介の直後にその人物を忘れるなんていう、これこそ七不思議に名を連ねるべきであろう正真正銘のミステリーに遭遇できたのは、なかなか悪くなかった。仕置きがお粗末な罠一つと、地味な嫌がらせ程度で済んだのはそれがあるからだ。なかったら最悪金棒ぶっ飛ばしてただろう。仕事に関して、鬼灯はめっぽう厳しい。普段の上司に対する対応がアレなのだから、部下に対しても容赦がないのはわかりきっている。
そりゃ、この小鬼がたまに話したそうにしてたのは知っているけれども。だからといって鬼灯は、会話に入れないやつをわざわざ入れてやるような気遣いとは無縁の男である。
「そういうことなので、勝手に痛み入れられても困りま…………あ?」
鬼灯がまばたきをしたその次の瞬間であった。
「また消えやがった」
勘違いしていたのがよほど恥ずかしかったのだろうが、昨日のことといい、都合が悪くなるとすぐ逃げ出すのは悪い癖だ。鬼灯は再び金棒を床に振り下ろし、ふんと鼻を鳴らした。まあどうせ、昼には食事の注文ができなくておろおろしていることだろうから、説教はまたそのときにしよう。探し回っている暇はない。鬼灯は忙しいのだ。
また部屋のドアがノックされる。
「どうぞ」
「鬼灯様、おはようございま……うわっ」
部屋に入ってきた唐瓜が、まだしかけられたままだった縄に足をひっかけた。バランスを崩しかけたものの、踏みとどまって足下を振り返る。
「なんなんですかこれ」
「対小鬼用の罠です」
「はぁ……小鬼ナメてるんですか?」
「やっぱり唐瓜さんもそう思いますか」
唐瓜は鬼灯の言葉に首をかしげるばかりだった。