金一封を差し上げます。 01


 は、異性というものにあまり触れたことがない。
 の通う学校は、女子生徒しか在籍することができない中高一貫の女子校だ。地元では「お嬢様学校」と呼ばれ遠巻きにされている。それもそのはず、この学校に入る際に必要なのは学力ではなく、"親族にこの学校の出身者がいるかどうか"ただこの一点のみ。資産も確認されるが、これはあくまで確認であって、自己申告だけで済む。の母はこの学校の出身だった。母だけではない。祖母も叔母も、四つ上の従姉だってそう。家の女はみな、この学校に通い卒業していった。なにかと昔の母の話をしたがる教師には嫌気がさすこともあるが、はそこそこ楽しく通っている。
 さて、この学校では、ここ数年普通に会話したことのある異性といえば父親か兄弟か使用人、という生徒が半数を占め、またも例に漏れない。否、には男の幼馴染がいるのだが、あれは男だか女だかわからないのでノーカウントだ、とは思っている。
 そういう事情があって、この学校の生徒たちはおなじ思春期を迎えた女よりもいっそう男という生き物に敏感である。だれそれに彼氏ができた系の情報が回る速度は尋常ではなく、別れた系の情報はさらに速い。なにしろ揃って家柄のいい者たちばかりで、あまりおおっぴらに男遊びをすることもできないのだった。制服姿で歩けばここの生徒であることは一目瞭然で、並の男は気後れする。たまにバカな男が寄ってくるが、腐ってもお嬢様、彼女らの理想はそこそこ高く、とてもじゃないがその手の男は願い下げという有様であった。
 の友人は、そんな事情の中で「アイドル」という存在に活路を見出した層だった。この手の層は心の慰め程度に嗜むライト層から、もう彼がいないと生きていけないレベルのヘビー層までさまざまな症状の者が存在していて、彼女は限りなくドヘビーに近い。なまじ財力はあるものだから、まだ売れていない新芽のような駆け出しのアイドルを見つけ出しては、ドン引きするほど貢いで人気が出たらサヨナラするという道楽のような追っかけを続けていた。おかげで新しく人気のアイドルが出てきても「奴のお手つきだ」ということで、いまいちファンになれない空気ができてしまったりする。
 しかし、彼女はドルオタと呼ばれることを快く思っていない。「わたしは投資家なの」というのが彼女の口癖である。曰く、投資をすればするほど、活躍する姿を目にした際「わたしが育てた」という満足感を得るのだという。自分が投資することで日本中のドルオタが狂気する。えも言われぬ快感である、と。なるほど変態としかいいようがなかった。彼女のお手つきアイドルを応援する気になれない気持ちもわかるというものだ。


* * * *


 その日、彼女は満足げな顔をして登校してきた。いくら彼女が自らを投資家と呼ぼうとも、この顔はドルオタの顔以外のなにものでもないとは思う。
 彼女は新しい投資先を見つけることに余念がない。昨今はアイドルの形も多様化していて、そのすべてを把握するのは困難を極める。彼女が最近になって目をつけたのはネットアイドルという、ネット上で活躍するアイドルだった。彼女曰く、素人くささがたまらんのだそうだ。獲物を狩る目つきをしていた。
「眉難高校の防衛部がアツイ!」
 彼女は高らかに言った。いわばお手つき宣言である。
「当人たちは明らかに素人なのに、素人とは思えないこの仕上がり! 顔面偏差値にムラがなさすぎる! だいたいなんなのこの衣装にセッティング! このマスコミ研究会ってのは一体何者なんだ!? 気になるしめっちゃスポンサーになりたい!」
 大声で言い切った彼女は机に肘をつき、顔を俯かせ長く深い溜息をついた。「マスコミ研究会が学生ならワンチャン交渉できそうよねーメール送ってみようかしら」などとブツブツつぶやいている。乱高下する彼女のテンションはもはや中学からの付き合いであり、だけでなく他のクラスメイトたちも静かに無視していた。
 彼女はTwitterやFacebookなど、SNSの類を利用していない。自分が唾をつけたアイドルに他人が群がるのをなによりも嫌うからである。したがって思いの猛りを吐き出すのは決まって学校であり、なのだった。アイドルに興味のない人間にならなにを吐き出しても大丈夫だろうという安心感からだろうか。はた迷惑な話だが、アイドルが絡まないときの彼女はいたって普通のよき友人なので、付き合ってやることにしている。
 はアイドルに興味がない。顔のよしあしはよくわからないし、歌やダンスは確かに努力しているんだろうなあと感心することはあるが、それだけだ。
「あんたも見てみてよこれ。明らかにその辺の素人とは違う出来」
 差し出されたカレンダーを受け取る。表紙には一月二月のカレンダーとともに、五人の男子高校生の集合写真が大きく載っている。
「推しどれ?」
「これこれ」
 彼女がだるそうな目をした長身の男を指す。
「あー、好きそう」
「わかる~? 好きなんだよねそういう塩対応タイプ。いくら塩対応しようがわたしの金がなきゃ活動できないんだと思うと興奮する」
「相変わらずだねえ」
「わたしなりの愛よ、愛」
 の目から見ても、そのカレンダーは駆け出しネットアイドルとは思えない出来だった。衣装にロケーション、写真撮影に至るまで、並々ならぬ熱意を感じる。制作はマスコミ研究会という組織らしいが、彼女の言葉通り、何者であるかはわからない。マスコミがアイドルのプロデュース業を行っているというのは、そもそもイメージが結びつかなかった。
「そういえば、幼馴染がいるんだっけ? 眉難高校」
「まあ」
「あんたあんまりその幼馴染の話しないわね。わたしはアイドル一筋だから僻んだりなんかしないわよ」
「そういうんじゃなくて、なんというか、馬が合わないんだよね」
 曖昧に逃げを打つに、彼女は「ふうん」と至極興味のなさそうな声を出した。アイドル一筋という言葉に嘘偽りはない。
 カレンダーをめくっていく。どうせ彼女のことだから複数確保しているのだろうが、万が一損傷するようなことがあればなにを言われるかわかったものではないので、扱いは慎重だ。 二ページ目以降は五人それぞれを一人ずつ撮影したもののようだ。女子と見間違いそうな金髪の小柄な少年。だるそうな目をした長身の男。知的で穏やかな印象を受ける男。なんとなく各々にイメージカラーがあるのがわかる。アイドルにはよくあることだ。そのうち彼女の持ち物が青に染まっていくのだろう。
 次のページをめくった。その瞬間、自分に中に沸き起こった衝撃について、は生涯忘れることはないだろう。
 まず印象に残ったのは、そのアンバランスさだった。短く切り揃えられた前髪は直線的で、ともすれば子どもっぽくも見えたが、その眉は細くすっきりとしている。口許は柔和な笑みをたたえており、むしろ高校生にしては大人びて見えるほどだ。つり目がちの瞳は長い睫毛に縁取られ、それほどきつい印象は残らない。育ちのよさそうな物腰の柔らかさと、幼い髪型。ちくはぐさを感じさせないのはなぜだろう。きっと、彼の魅力はそこにあるのだと、は確信に至っていた。
 は衝撃に身を震わせ、カレンダーに釘付けになっている。友人は怪訝そうに首をかたむけた。
「どうしたの、。好みの男でもいた?」
 今までアイドルには欠片も興味を示してこなかったを揶揄するように、友人は笑いながら言う。
「こ、この人、名前なんていうの」
「え?」
 一目惚れだった。


* * * *


 帰宅すると、幼馴染が来訪していることを使用人に告げられた。母と歓談中らしい。ご挨拶されますか? という問いに否と返事をする。と彼の折り合いがよくないのは屋敷内では周知の話だ。あとで母に小言を食らうかもしれないが、そんなことよりも、にはやることがあった。
 真っ先に自室へ向かい、鞄をベッドに放り投げた。勉強用の机の上には、ノートパソコンが置かれている。父親のお下がりだ。大学に入るまでは新品は買い与えないのが父の方針らしかった。
 少し古いこのパソコンは、起動に時間がかかる。セットアップ画面が出ているあいだに、ベッドに放った鞄からカレンダーを取り出す。が尋常ではない様子だったので、友人は快くカレンダーを譲ってくれた。予想どおり自宅に同じものがいくつもあるそうだ。具体的な数を聞くのはこわいのでやめた。
 が一目惚れをしたこの人物は、鳴子硫黄という。眉難高校の二年生、つまりとは同い年だ。友人にどんな人なのか矢継ぎ早に質問したところ、「ホームページにプロフィール載ってるからググれ!」と一蹴されてしまった。友人は自分で調べない人間が嫌いなのだ。「スマホからは見づらいし動画コンテンツもあるから家帰ってパソコンから見たほうがいいわよ。いまどきスマホ環境に最適化もされてないなんてやっぱり高校生ってことかしらね。ほかはクオリティ高いのに」というアドバイスはしてくれたので、基本的に悪いやつではないことを、彼女の名誉のために申し添えておく。
 インターネットブラウザを立ち上げて、「眉難高校」「防衛部」と入力する。真っ先に表示されたページは、眉難高校マスコミ研究会のホームページだった。マスコミ研究会は独自にホームページを制作しているらしく、ネットアイドルである防衛部はマスコミ研究会の活動のひとつとして公開されているようだった。
 地球防衛部、通称防衛部。そもそも防衛部は正式名称ではなかったらしい。ネットアイドルとして活動をはじめたのはごくごく最近のことで、もともとは部活動だったそうだ。どんな部活動なのだろう。名前からまったく想像がつかない。ボランティア活動とかをするのだろうか。公園でゴミ拾いをしたりするのかもしれない。
 メンバー紹介ページを開いた。上から数えて四番目の人物のプロフィールを読む。大した情報は書いていない。名前、年齢くらいだ。これほど情報量が少ないのは、動画コンテンツへの誘導のためだろう。マスコミ研究会なのだから、インタビューはお家芸に違いない。
 プロフィールの写真ひとつとっても、やはり鳴子硫黄の顔の造形は美しかった。しばらくじっくりと眺めたあと、保存しようと思いつき、右クリックでメニューを開く。ファイル名として、ただ名前を打つだけでもドキドキした。世界の色が変わったような心地だった。
 こんこん、と音がした。誰かがの部屋をノックしている。返事をすると母が入ってきた。
「帰ってきてるなら挨拶くらいしなさい。阿古哉さん、帰ってしまわれたわよ」
「ごめんなさい」
 心にもない謝罪を述べる。母は呆れたような顔をして、菓子の箱を渡してきた。幼馴染が土産にと置いていったらしい。外面だけはいいのだ、あの男は。父と母の前では人が変わったように穏やかな好青年然とした態度になる。おかげでがなにを言っても両親には信じてもらえない。にくたらしいことこの上なかった。
「なにを見ているの?」
 母がノートパソコンの画面に目をやったので、はあわててノートパソコンを閉じた。ばたん、という大きな音に母が顔をしかめる。
「な、なんでもない。ちょっと動画をみてただけ」
 嘘ではなかった。これから防衛部の動画コンテンツを鑑賞する予定だったのだから。
「そう」
 母は興味なさそうにそう言って部屋を出ていった。ホッと息をついて、椅子に座りなおす。男性アイドルのホームページを見ていることが恥ずかしいわけではなかった。好きな人を母親に見られるのが恥ずかしい、の感情はただただそれだけだ。
 幼馴染の土産の正体はマカロンだった。色とりどりのマカロンが並んでいる。数個ないのは母がとっていったからだろう。黄色のマカロンを見ると、なんだか胸が高鳴ってしかたがない。友人が青色のものを集めたがる気持ちも理解ができる。黄色のマカロンは大事にとっておくことにして、ピンクのマカロンを手にとり、一口かじった。
 動画コンテンツのリンクをクリックする。やはり、各メンバーにインタビューを行った動画が公開されているようだ。
『さて、次のインタビューにまいりますよ!』
 愛嬌のいい、眼鏡の男子高校生がマイクを片手にカメラに向かって話しかけている。マスコミ研究会のインタビュアーだ。1人目から順番に動画をみているというていで撮影しているようだ。あとで他のメンバーのインタビューもみたほうがいいのだろうか。なんだか罪悪感がある。
『おや?? あそこにいるのは防衛部のメンバーではございませんか?』
 わざとらしく驚いた顔をするインタビュアー。カメラアングルがインタビュアーの視線の先へと移動する。そこには木製のベンチがあり、鳴子硫黄がノートパソコンを膝にのせて座っていた。横顔は長い睫毛がよく映える。
「こんにちは」とインタビュアーが声をかけると、鳴子硫黄も「こんにちは」と言葉を返して軽く会釈をした。ノートパソコンの内蔵スピーカーから再生された鳴子硫黄の声はあまりよく聞こえない。インタビュアーの声が大きいからだろうか。は普段使っているオーディオプレイヤーからイヤホンを抜き、ノートパソコンにさした。
『お名前を教えてください』
『鳴子硫黄と申します』
 丁寧な口調で鳴子硫黄が名を名乗った。イメージどおりの、やわらかい声だった。は動画の音量を上げた。鳴子硫黄の声を聞き逃してはなるまいと思い、なんとなく息をひそめる。
『いまはなにをしているんですか?』
『市場の動向をチェックしています』
『ほう、差し支えなければ画面を見せていただいても?』
『かまいませんよ。どうぞ』
 鳴子硫黄が、カメラに画面が映るようノートパソコンを膝の上で動かした。そこには、複数のグラフが映っている。線グラフだ。見覚えのある画面だった。
『これを常に観察しているのですか?』
『ええ、そうです。もちろん授業中は控えていますが』
 あ、お父さんがよくやってるやつだ、とは思い当たった。の父の書斎には、パソコンのディスプレイが複数設置されていて、たくさんのグラフが映し出されている。仕事なのか趣味なのか、にはいまいちよくわかっていない。
 鳴子硫黄はパソコン、スマートフォンなどの端末から可能な限り常に動向をチェックしているのだという。自宅にはそれこその父顔負けの設備が整っているらしい。
「お父さんみたいだなあ……」
 の父も、外出先でいつものグラフを眺めているときがある。父はテニスが趣味で、よくも連れ出されるが、休憩中にスマートフォンをいじっているかと思うと大抵はこれだ。母はよく呆れた顔をしているが、は特段気にしなかった。まじめな顔でグラフを見つめる父の姿も含めて、の日常だった。
 インタビュアーは、次々と質問を投げかけていく。好きな食べ物、休日の過ごし方、防衛部のメンバーの印象、防衛部の中では誰と仲がよいのかなど。鳴子硫黄は台本でもあるのだろうかと思うくらい、そつなく答えていった。は一言一句聞き漏らさないように、パソコンにかじりついた。最後に、この動画を観ているファンへのメッセージを要求されると、鳴子硫黄はこれまでの声のトーンを崩さないまま、非常に模範的なメッセージを語り終えた。
『まだまだ駆け出しの私たちですが、がんばってまいりますので、どうぞ応援よろしくお願いします』
 やはり台本があるのではないかと思ったが、友人の推しである由布院煙の動画ではしどろもどろな部分もあり、台本が用意されているわけではなさそうだった。ファンへのメッセージにいたっては、めんどくさそうに顔を引きつらせていた。メンバーによってこの活動への熱意は違うようだ。
 由布院煙の動画のあと、もう一度鳴子硫黄の動画を見直して、は作りもののようだと思った。落ち着き払った態度といい、台本のようなしゃべりといい、その美しさといい、どうも男子高校生らしさが欠けて見えた。果たして彼は実在するのだろうか。画面の向こうにしか存在しないのではないのだろうか。初恋の行方に、不安を覚えた。


* * * *


「鳴子硫黄に会ってみたい?」
 友人はすっとんきょうな声を上げた。HR前の朝である。
 彼女の登校は早い。こう見えて成績は優秀で、模範的な生徒なのだ。趣味が少し変わっているだけで。は早くも遅くもないが、ほぼ皆勤賞なのが自慢だ。はすでに登校して教科書を眺めている友人を捕まえて、昨日至った結論を話した。
「昨日の今日でなにを言い出すのかと思ったら。たしかに眉難高校はそこそこ近いけど……」
 友人が眉をひそめる。彼女がいい思いをしないのは覚悟の上だった。なにせ彼女はドルオタのプロである。「これだからにわかはイヤなのよ。アイドルはみんなのもの、自分だけ独占したいという気持ちを抱いた時点でドルオタ失格。あんたに鳴子硫黄を推す資格はないわ!」と言われてもおかしくない状況だ。それはいままでの付き合いで重々分かりきっていた。
 友人はが想像していた言葉を一言一句違えず言い終えたあと、「と、言いたいところだけど」と言葉を濁した。頬杖をつき、不愉快そうな顔をする。
「マスコミ研究会にコンタクトとってみたんだけど」
「わたしが言うのもなんだけど行動はやいね」
「メール入れてみたら即返事が返ってきて、しばらくやりとりしてみたのよ。そしたらマスコミ研究会の城崎って野郎が本当にだめで! メールの本文からわたしの嫌いな人間のオーラがにじみ出てるの! 数回やりとりしただけでこうなるだなんて相当だわ。本当に最悪。防衛部は推したいけどマスコミ研究会に金を払うのは死んでもイヤ! 由布院煙を全国に飛び立たせたかったのに城崎のせいで台なしよ! 推したかった!」
 机を何度も叩いて早口に言い切ったあと、友人は糸が切れたように突っ伏し、「推したかった……」ともう一度繰り返した。ドルオタのプロである彼女が、たかだか一人の男が気に入らないというただそれだけでアイドルを推すをやめるなどというのは、異常な事態だった。「えっと、そのキノサキくんのどこがいやなの」
「わたし、自分よりも早口でしゃべる人間って嫌いなのよね」
「えっ、メールのやりとりしかしてないのに?」
「なに言ってんの、インタビュアーの眼鏡! あれが城崎よ」
「あれっ?」
 まったく名前に覚えがなくて、首をかしげてしまった。自分でいうのもなんだけれど、本当に鳴子硫黄以外の情報が頭に入ってきていない。
「メールの文章でもとにかく文字数で殴って相手を圧倒してやりたいっていう意思に満ち満ちてて気分が悪いったらありゃしないわ」
「難儀だねえ」
 それがおそらく友人の同族嫌悪であることは、ですら理解していたし、きっと本人も薄々気づいていることだった。は常のごとくなんでもない顔をして、うんうんとうなずいた。
「というわけで、鳴子硫黄に接触することを許可します」
「わーい、やったー!」
 こうして、は友人の許可を得ることができたのだった。ドルオタというのは、自分が推していないものに対して非常に寛容である。無関心ともいう。もっとも彼女の場合は、無関心であろうとしているだけなのだが。


* * * *


 巷で名の通ったお嬢様学校というだけあって、車での送迎で通う生徒は多い。もまた例に漏れなかったが、は家に連絡をいれて、電車で帰ることにした。無論、眉難高校に向かうためだ。友人と寄り道をして帰るために電車で帰ることもままあるため、特に怪しまれることもなかった。
「健闘を祈る。一応報告を待ってるわ」
 友人は軽く敬礼をして、迎えの車に乗り込んでいった。
 駅へと向かう道すがらスマートフォンで時間を確認したが、正直向こうの下校時刻など見当もつかなかった。幼馴染は生徒会に所属しており、帰宅時間がまちまちなので参考にならない。地球防衛部の活動をしてから下校するとすれば、遅い時間帯になるのだろうか。歩きながら考え込んで、かぶりを振った。
「いや、わたしは待つぞ!」
 スマートフォンのロック画面に設定した鳴子硫黄の画像を眺めながら普段はあまり乗らない電車に揺られ二十分程度。眉難高校の最寄駅で下車した。駅からは徒歩で十分程度かかるようだ。
 改札は一つしかなく、迷わず駅から出ることができた。駅前のロータリーは、人々の帰宅に備えて少しずつ忙しなさを見せはじめ、車やバス行き来していた。タクシー乗り場と書かれた場所があったが、タクシーは一台も停まっていなかった。
 おそらく眉難高校の生徒であろう、すれ違う男子高校生たちが、必ずを振り返る。駅の改札に向かうもの、バスを待つもの、コンビニエンスストアで買い食いをするもの。みな一様に好奇の眼差しでを見た。
 制服を着て出てくるんじゃなかったな、と少し後悔を覚える。見慣れないお嬢様学校の制服に気づいたものたちが、なにごとかをささやきあっている。正直慣れてはいるけれども、けして居心地のよいものではない。自然と眉難高校へ向かう足取りがはやくなるが、眉難高校へ近づけば近づくほど、すれ違う生徒の数は多くなっていった。
 この辺り一帯は山が多く、人が住む場所でもそれなりに起伏がある。眉難高校も小高い丘のうえに建っており、長い階段を上らねばならなかった。眉難高校の生徒はここを毎日上り下りしなければならないのか、とうんざりした気持ちで足を進める。車の送迎がない人間は大変だなとも思った。
 階段の途中でコンビニエンスストアを見かけ、にわかに喉の乾きを感じた。水でも買おうかと思い立ち、店内へ足を踏み入れる。少し迷って、このあいだテレビCMで見た会社のミネラルウォーターを手に取った。そのままレジへ持っていくと、店員のおじさんに「その制服、もしかしてサマジョ?」と声をかけられた。
「ええ、まあ」
「めずらしいね。こんなところにサマジョの子が来るなんて」
 サマジョ、というのはが通う高校の名前だ。狹間野女子中高等学校、通称サマジョという。この略称については、歴史のある学校だけに、世代によって賛否両論ある。の母は「品がない」と言うし、友人たちは「リケジョみたいでイケてる」と言う。
 会計をして店を出た。ちょっと行儀が悪い気もしたけれど、喉も乾いているしいま飲んでしまおう、とキャップを回す。こんな姿、母が見たらお小言だろうなと思いながら。
「マス研からちらっと聞いたんだけどよ」
「煙ちゃん、マス研と会話する機会なんてあったの」
「よくあんなのと会話できますね。俺あの勢いにはさすがに勝てないっすよ。一方的にボール大量に投げつけられて終わりっす」
「いや俺も大量にボール投げつけられたんだけど、その中に気になる情報が入ってたんだって」
「へえ」
「俺たちのカレンダーをほとんど買い占めた女子高生がいるらしい」
 水が変なところに入ってむせた。咳き込みながら、咄嗟に近くの電柱の陰に身を隠す。
 階段の上方、つまり眉難高校のある方向から、男子高校生が数人おりてくる。は目を疑った。その集団の中に、鳴子硫黄のまるい頭が見えたからだ。鳴子硫黄は実在するのだ。写真や動画の中ではきらきらして見えた鳴子硫黄が、普通の男子高校生に紛れて普通の男子高校生みたいに歩いている。みたいもなにも彼は普通の男子高校生なのだけれど、にはにわかに信じがたかった。しかし、彼らは防衛部で、彼は鳴子硫黄だった。カレンダーを買い占めた女子高生というのは、論ずるまでもなく友人のことだろう。その買い占めたカレンダーの一つをは持っているのだ。
 残念なことに、鳴子硫黄はそのまるい後頭部をに向けていて、こちらを見なかった。顔が見たかった。あなたの顔さえ見られればわたしは満足なの。は祈っていた。
「えっ、買い占めるって一人で?」
「らしいぜ」
「あのカレンダーいくつ作ったんだっけ? どのくらい金あれば買い占められんだろ」
「ざっと利潤はこのくらいでしょうか」
「おお……さすがイオ。視点が違う」
「これだけ利益が出るのであれば悪くはないですが、いかんせん人数がいますから、一人一人の取り分を考えるとあまり効率的とはいえませんね」
「一人の女子高生がこの利益を生み出しているんだね……」
「俺たちのカレンダーでな」
「ちょっと寒気してきた」
 鳴子硫黄が手元のスマートフォンを操作して、他の四人に提示しているのが見える。やはりこちらに顔を向けない。
「いやー、これだけ売れたのもやっぱり俺のおかげっすかね!」
「あー、かもな」
「かもしれないね」
「かもしれないですね」
「みんなかっこよかったっすよ!」
 カチューシャの少年――たしか蔵王立といったはずだ――の言葉に、小柄な少年――こちらは箱根有基だ――以外の三人が雑な反応を見せている。残念ながらカレンダーは彼のおかげではなく、由布院煙のおかげで売れたのだ。誠に残念ながら。
 そのとき、鳴子硫黄がすっと前方を向いた。ちょうどが隠れている電柱の目の前を通ったときだった。鳴子硫黄の美しい横顔が、惜しげもなくの眼前にさらされている。時間にすれば一秒にも満たないまさに一瞬のことだったが、その情景はの脳裏に焼き付いたのだった。
 五人の声がだんだんと遠くなっていく。とうとう話しかけられなかったは、彼らの背を見送りながら「また明日も来よう」とぼんやり考えていた。ぼけっとしていたので、ふたを開けたままだったペットボトルから、水がすこしこぼれた。はっとして見ると、ネイビーのスカートが一部色を濃くしている。あわててペットボトルのふたを締め、鞄からハンカチを出して押さえた。ただの水だ。帰るころには乾いているだろうし、特に問題ないだろう。
 ただ、冷静になったは考えていた。
「これってストーカーってやつなんじゃないだろうか……」