ジェイド先輩に花もらったんだけどまさか毒草じゃないよね?

※女監督生夢主

 わたしは頭を抱えたい気持ちで、小さな鉢を見つめた。鉢には一輪だけ花が植わっている。真っ白なつぼみがついていて、あともう数日もあれば咲きそうだ。これは、ジェイド先輩からのいただきものだった。
 ジェイド先輩は、植物をガラス容器などで栽培するテラリウムが趣味なんだそうだ。海にはないものだから、陸に上がってからの趣味だろうと推測するが、実際のところはどうなのかわからない。テラリウムにはさまざまな植物を植えるが、ジェイド先輩は植物園でこっそりテラリウム用の植物を育てているのだという。ジェイド先輩にこの鉢をもらったときは、まだ土しか入っていなかった。「とてもめずらしい花の種が植わっているんです」とジェイド先輩は言った。誕生日だとかクリスマスだとか、特にそういったイベントごとがあったわけでもなくて、本当に突然のことだった。わたしは鉢をまじまじと見つめて、それからジェイド先輩を見上げた。
「え、えっと……なぜわたしに」
 かろうじてそれだけ尋ねる。ジェイド先輩は笑みを絶やすことがない。せっかく先輩からものをもらったのに、感謝より先に理由を問う言葉が出てきてもそれは変わらなかった。気分を害した様子はなく、むしろ笑みが深くなったような気さえする。考えが読めないと、この人に対して何度思ったか知れない。
「監督生さんと親交を深めるには、このような手段がいいかと思いまして」
「はあ」
「この花は育てるのが難しいんですよ。ですから、僕と一緒に育ててみませんか?」
 なぜ大して仲がいいわけでもないわたしに、と思ったが、親交を深めるためと言われれば表向き納得するほかない。たとえそれがどんなにうさんくさくてもだ。ジェイド先輩といえば、あまり積極的に話しかけたことも話しかけられたこともない。アズール先輩やフロイド先輩にはわりとよくしてもらっているが、ジェイド先輩はいつもふたりとわたしのやりとりに茶々を入れるだけで、ジェイド先輩自身がなにかわたしに働きかけるようなことはなかったように思う。それが一体どんな心境の変化なのか、わたしと親交を深めたいなどと言うのだ。これを額面通りに受け取るのは、ちょっと難しいだろう。
 一抹の不信感を抱えながら、その種が植わった鉢を受け取ったわたしだったが、予想に反してジェイド先輩は「一緒に育てる」と言ったとおり、きちんとわたしに目を配った。花を育てるなんて小学生のときに朝顔を育てた以来なのでよく知らなかったが、種のうちはじょうろなどは使わないで、霧吹きで一日に数回土を湿らすにとどめるらしい。はやくて数日、遅くとも一週間で芽が出るという話だったが、ジェイド先輩はわたしを見かけると「芽は出ましたか?」と必ず声をかけたし、一日一度は霧吹きで水をやったかどうか確認のメッセージがスマホに送られてきた。たしかに「あなたが水をやり忘れたりしないように連絡先を交換しましょう」と言われて交換したのだが、本当に確認メッセージがくるとは思っていなかったので驚いた。花を育て慣れていないわたしは、数日に一回は水やりを忘れたのでこれはありがたかった。親交を深めたいというジェイド先輩の言葉の真意はともかくとして、花を枯らしたとあっては人からもらったものでなくとも後味が悪いし、なによりあの人がどんな反応をするのか予想がつかないからだ。
 ついに小さな芽が出たとき、わたしはスマホで写真を撮って、ジェイド先輩に報告した。朝一で送ったにもかかわらず即レスで、かつものすごい長文が返ってきて圧倒されたのを覚えている。本当に育てるのが難しい花なんだろうと思う。でなければこんなに大絶賛されるはずがない。わたしはただジェイド先輩リマインダーに従って霧吹きを吹いていただけなので、称賛されるべきはジェイド先輩であるはずなのだが。無難にジェイド先輩のおかげですよと返信したら謙遜大会がはじまってしまったので、今後について尋ねることでそれを終わらせた。ジェイド先輩からはいろいろとアドバイスを受けたが、特に注意するよう言われたのが「他人にさわらせないこと」だった。聞くところによると非常にデリケートな花なので、わたし以外がさわらないことが重要なのだそうだ。特にグリムの存在は心配な様子で、彼に見つからないようにしてくださいとメッセージがつづられていた。もともとこんな小さな鉢、グリムに見つかったらなにをされるやらわかったものではないので、鉢はわたしの部屋ではなく空き部屋に置いている。床が穴だらけで状態は最悪だが、日当たりはいい部屋だ。日当たりがいい部屋はほかにもあるので、グリムのお昼寝スポットにはなっていない。ゴーストたちにもこの鉢にいたずらするのは絶対にだめだと言い含めてある(ゴーストたちはグリムと違って事情を話せば言いつけを守ってくれるので助かる)。おかげでジェイド先輩にもらった花はゆっくりとではあるが順調に成長した。
 ジェイド先輩に学校で話しかけられる頻度はかなり高くなった。アズール先輩もフロイド先輩もいない状況のジェイド先輩がわたしに話しかけるというのは非常に稀有で、はじめはどうにもおさまりが悪いような気さえしたが、じきに慣れた。話す内容といえばほとんどがアズール先輩とフロイド先輩の話だったが、だんだんとジェイド先輩自身の話も聞くようになってきた。好物の話とか、植物園で育てている花の話とか、今日とれたきのこの話とか。植物を育てるのが好き、まではわかるが、そこからきのこに飛躍するのがジェイド先輩のよくわからないところだ。よければ今度きのこ料理でもいかがですかと誘われて、閉店後のモストロ・ラウンジにこっそり行ったことがあった。アズールとフロイドには内緒ですよ、と言われたので、本当にこっそりだ(聞けばフロイド先輩はきのこが好きではないらしい。アズール先輩を誘わなかった理由は教えてもらえなかった)。ジェイド先輩がふるまってくれたきのこ料理はどれもおいしかった。
「きのこって個人で栽培できるんですね。知りませんでした」
「いろいろと設備が必要ですからね。ここにはそれがすべて揃っていて助かりますよ」
「設備はもちろんですけど、知識も必要でしょう? 先輩の飽くなき情熱の賜物ですよね」
「おや、これはまたうれしいことをおっしゃいますね。もしや、次回のきのこパーティー招待券をご所望ですか?」
「え、今のはそういうつもりでは……いや、いただけるならうれしいんですけど」
 否定をしようとしたが、全否定まではできなかった。なにしろオンボロ寮の生活費(主に食費)はカツカツだ。こうしてご相伴にあずかることができれば、多少なりとも生活が楽になる。今日だって本当はグリムも連れてきたかったけど、ジェイド先輩には断られてしまった。あれは遠慮を知らないので無理もない。彼の胃袋を満足させることについては、今日みたいなささやかな場よりも、なんでもない日のパーティーやスカラビア寮の宴に期待しよう。
「そうじゃなくて、純粋にすごいと思ってるんですよ」
「ええ、わかってますよ。そんなにすねないでください」
 眉を下げて困ったように笑ったジェイド先輩に、「べつにすねてませんが」と不満げな声が出てしまう。ジェイド先輩はさらに声を出して笑った。しかたのない人ですね、なんて、フロイド先輩をなだめすかすみたいに言わないでほしい。家族に向けるみたいな、そんな甘やかな声と言葉を向けられたら、なんだか変な気分になる。ジェイド先輩は笑みを浮かべている。それはいつもと、鉢を贈られる前となんら変わりない顔であるはずだ。そうに決まっている。わたしは幻想を振り払うように、ジェイド先輩お手製のきのこ料理をもくもくと平らげた。
 その日寮に帰ると、ジェイド先輩にもらった鉢は小さくてかわいいつぼみをつけていた。


 ゴーストの大群がナイトレイブンカレッジの校舎を占拠し、結婚式をやるだのやらないだの、上を下への大騒ぎとなったのは第一回きのこパーティー開催後まもなくのことだった。亡国の姫ことイライザ姫率いるゴースト軍団になんとかナイトレイブンカレッジからお引き取り願うため、勝手に結婚式場にされてしまった食堂に何人もの花婿候補が送り込まれては平手打ちを食らうさまは、本来笑いごとではないはずなのに笑うしかなかった。途中からほとんど大喜利と化していた感は正直否めない。あのリドル寮長でさえ、これをまじめに切り抜けようと奮闘した理由の大部分はハートの女王の法律だったのだからお察しだ。「おもしろそうだから」という理由で参戦した花婿候補も何人かはいたことだろう。あの学園長にしてこの生徒あり、といったところか。ひでえ話もあったものである。
 最終的には意外や意外、途中まで大笑いしながら他人ごとのように傍観していたエースが場を収めてことなきを得たわけであるが、わたしの胸中にはひとつの疑念が浮かんでいた。ジェイド先輩がイライザ姫に贈った花のことだ。オペレーション・プロポーズにおいて、ジェイド先輩がイライザ姫に贈った花。それはたしかにとてもきれいな花だったが、フロイド先輩によってそれが毒草であることを暴露され、ジェイド先輩はあえなく平手打ちを食らうこととなった。毒草を渡した動機はずばり好奇心。花の毒がゴーストにも有効なのかどうかを確認したかった、と言うのがジェイド先輩の言なのだった。平手打ちを食らって動けなくなっている先陣を見ていたにもかかわらず、好奇心を優先して成功を捨てたジェイド先輩の振る舞いにはいっそすがすがしさを覚える。
 結婚式場の片づけを終えて、くたくたになってグリムとともにオンボロ寮に戻ったわたしは、花に水をやらねば、と考えた。ここのところは水やりももはや習慣となっており、水やりの頻度が少なくなったいまもジェイド先輩リマインダーなしで滞りなく行うことができていた。ジェイド先輩ももうわたしに任せて問題ないと考えているのか、リマインダーじみたメッセージは送ってこない。グリムに先に寝ててと伝えて、鉢が置いてある部屋に向かう。土の様子を確認してから、コップに水を汲んで、少しずつ土を湿らせた。つぼみの色は白く、窓から差し込む月明かりを反射したそれは、うっすらと光を放っているようにも見える。
 このとき、まさか、といういやな考えが頭をよぎった。よもやこの花も毒草の一種ではあるまいな? と。
 わからないことは図書室で調べるしかない。たしかめずらしい花だと言っていたはずだ。わたしは暇を見つけては図書室で花の図鑑とにらめっこした。わたしが触れているのになにもないということは、イライザ姫に贈った花のような猛毒を持っているわけではなさそうだ。しかし花の毒にもいろいろある(これは魔法薬学の授業で習った)。まだつぼみだから問題ないだけで、花粉に毒があるのかもしれないし、食べると毒なのかも。たとえばジェイド先輩が「この花食べられるんですよ」などと言ってきたら、わたしはさすがにそれはちょっと、とためらいつつも最終的には口に入れるだろう。そのくらい、いまのわたしはあの人を懐に入れてしまっているし、ジェイド先輩もそれを自覚しているはずだ。ありえないと言い切れるだろうか。あのゴースト騒動におけるジェイド・リーチの振る舞いを見てなお、そう言えるのか?
 いくつも図鑑を探したが、目当ての花は見つからなかった。そんなにめずらしい花なのか、それともめずらしい花というのが実はジェイド先輩のうそっぱちで、実はありふれた花なのか。前者だと見込んでいたからすぐに見つかると思ったのだが、これは予想外だ。この世界には、元いた世界では見たことも聞いたこともない花も多くて、仮に後者だった場合はこれ以上自力で探すのは難しい。こうなったらもう、人に頼るしかなかった。
「この花について教えてほしいんです」
「お前がそんなにも勉強熱心だったとは、 Good Boy いい子 だな、仔犬」
 魔法薬学の授業後、クルーウェル先生を捕まえて質問したいことがあると伝えて時間をもらった。スマホで撮った花の写真をクルーウェル先生に見せると、それまで不敵な笑みを浮かべていた先生は、一転してまじめな顔で画面を見つめた。
「仔犬、お前これをどこで」
 わたしが数日かけて調べてもわからなかったのに、つぼみの写真だけですぐにわかってしまうものなのかと驚いた。さすがは教師だ。わたしはジェイド先輩の名前は出さず、オンボロ寮の裏にたまたま生えていたのだと伝えた。何本か生えていて、きれいだったのでつぼみがついたものを一本鉢に植え替えたのだ、と。これが万が一毒草だったとしたら、ジェイド先輩が毒草を後輩に贈る人物だとクルーウェル先生に知られるのはちょっとまずいような気がしたのだった。
「なるほど。あそこなら生えていてもおかしくはないか……」
 クルーウェル先生は考え込むように手を顎にあてた。「そんなにめずらしい花なんですか?」と尋ねると、「そうだ」とすぐに答えが返ってくる。
「とはいっても、この花の希少性は少し特殊だがな」
 クルーウェル先生は再度スマホの画面を見つめ、「この様子ならあと一週間もあれば花が咲くだろう」と言ってわたしにスマホを返した。
「魔法薬学の観点からいえば、大した効用もない普通の花だ。ゆえに授業で扱うことはないが、授業で扱わない理由はこれだけではない。もっと大きな、かつ致命的な理由がある」
 クルーウェル先生が手に持った鞭を振ると魔法が発動する。空中に光が現れて、花の形を描いた。へえ、こんな形になるのか、とまだつぼみの姿しか知らない花に思いをはせていると、先生が鞭をもう一振りして、光の花は霧散してしまった。ああ、きれいだったのに。
「この花は、魔力に触れると枯れるんだ」
「へえ……。え?」
「魔法士という生き物は、魔法を発動していなくても微弱な魔力を放っている。だからこの花は、魔法士には育てることができない。希少性の高さはそこからくるものだ」
 めずらしい花なのもうなずけるだろう、と言われて、一も二もなく首を縦に振った。種の状態であれば魔力に触れても平気だが、芽や根が魔力に耐えられないらしく、すぐに枯れてしまう。さまざまな植物を育てるナイトレイブンカレッジでも、この花だけは咲かせた記録が一切ないのだそうだ。だから図書室の本にもほとんどその姿が載っていない。写真でしか見たことがない花が、思いがけずナイトレイブンカレッジの敷地内に生えていることを知った(わたしの嘘だけど)クルーウェル先生はこの話に非常に興味津々で、今度見せろ案内しろと言い出したので非情に困った。写真なら今度お見せしますから、次の授業があるので、などとなんとか固辞すると、まだ納得がいっていない様子だったが、さすがに大人げないと思ったのかそれ以上はなにも言わなかった。
 次の授業は飛行術だ。わたしは箒を飛ばせなくて基本見ているだけだから、制服姿のまま校庭に急ぐ。なんでよりにもよって飛行術なんだろう。見ているしかできないあの授業はひどく退屈で、よけいなことばかり考えてしまう。せめて体力育成とか、気がまぎれる授業だったらよかったのに。
 急に親交を深めたいなどと言って花を渡してきたジェイド先輩。めずらしい種類だというその花を素人に預けて、育て方について一から十まで説明し、わたしを見かければ「花の様子はどうですか」と尋ね、さらに面倒だろうに毎日水やりをしたかどうかの確認までして、なにくれとわたしに世話を焼いていたその姿をひとつひとつ思い出していく。最初に抱いた違和感の正体が、次第に浮かび上がってきた。こんなこと、気がつきたくなかったな。気がつかないまま浮かれていられればよかったのに。
 ジェイド先輩は、自分では絶対に育てることができないめずらしい花を、わたしに育てさせたかったのだ。


 それからわたしはジェイド先輩の姿を見かけるたびに、避けるか隠れるかしてやり過ごした。結果的にアズール先輩とフロイド先輩も避けることになり、一度だけ怒れるフロイド先輩に追いかけ回されたが、たまたますれ違ったリドル寮長にフロイド先輩の意識が逸れてなんとか逃げおおせた(リドル寮長にはあとで怒られた)。リーチ兄弟は体が大きく存在を察知しやすいので、捕まりそうになったのはこの一度きりだ。食事中に突撃されると回避のしようがないので、食堂の利用も控えた。購買部で食料を調達し、居場所を特定されないよう毎日違う場所で食べる。スマホのメッセージも、読みもしないで放置していた。通知は切ったが、ブロックまではしていない。我ながら子どもっぽい振る舞いだな、と思う。
 べつに、ジェイド先輩がいやになってこんなことをしているわけではなかった。わたしはとにかく混乱していた。ジェイド先輩の行動にではない。ジェイド先輩の行動に存外大きなショックを受けている自分自身にだ。
 きっとわたしは期待していたのだと思う。ジェイド先輩の「親交を深めるため」という言葉、意外と細やかに気を配ってくれていたこと、きのこパーティーへのお誘い、「そんなにすねないでください」と苦笑したその甘やかすような声、そういう声や表情、言葉のひとつひとつに。きっとジェイド先輩もわたしと同じように、心を溶かしてくれているのだと、おろかにもそう思ってしまったのだ。だからあの花が毒草なんじゃないかって、もしそうだったらどうしようって、確かめずにはいられなかった。そうじゃないって確信がほしくて。そうして勝手に期待した挙句、勝手に傷ついているのだから世話がない。結局ジェイド先輩には、はじめからめずらしい花を唯一育てられる人間であるということ以外、わたしに価値なんてなかったのに。でもあんなの、期待するなっていうほうが無理じゃないか。ジェイド先輩のことだから、勘違いするように仕向けていたに違いないのだ。魔力もなければ身を寄せる人だっていない。知らない世界にひとりで放り出されたわたしを憐れんで優しくすれば、すぐにころっと落ちて懐くだろうって、そう思っていたんだろう。ぐうの音も出ない。まさにそのとおりだ。お前の勝ちだよジェイド・リーチ!
 イライザ姫がジェイド先輩に平手打ちを繰り出した姿を思い出す。わたしも彼女のように、ひと思いにジェイド先輩に平手打ちを食らわせられたらどんなによかっただろう。ジェイド先輩なんて嫌い! ばちーん! という具合に。わたしは非力だからジェイド先輩はびくともしないだろうけど、多少なりとも驚いた顔でもしてくれればわたしの気も少しは晴れるというものだ。でも、よく考えてみてほしい。これではわたしがジェイド先輩に平手打ちを食らったようなものではないか? だってそうだろう。もう、わたしはどうにも動くことができないのだ。ジェイド先輩と話すことも、目を合わせることさえいまはひどくこわくって、前はもちろん、後ろにだって進めそうにない。
 それでもわたしは花の状態を毎日確認せずにはいられなかった。少しずつ、花弁が開きはじめているのを、複雑な気持ちで眺める。花が咲いたらどうしよう、ここに置いておくのはいやだな。ジェイド先輩に返すこともできないし、クルーウェル先生のところに持っていこうか。でも魔力が毒になるのだから、もしかしたらナイトレイブンカレッジの校舎内に入っただけで枯れてしまうかも。枯らせてしまうのはやはりもったいない。きっと美しい花が咲くに違いないのだから。
「わたしもお前くらい、魅力的な花ならよかったのかもしれないね」
 なんて、詩的なことをつぶやいた自分がおかしくって、くつくつと笑いながら顔を腕に伏せた。


 迎えた週末の朝、ジェイド先輩にもらった鉢には一輪の小さい花が咲いていた。土は十分に湿っていて、今日は水やりの必要はなさそうだ。わたしは寝間着を身にまとい、寝ぐせもそのままの起き抜けの状態で、そのきれいな花をぼうっと見つめていた。グリムが寝ているうちは、身支度も朝食も後回しでいい。あともうちょっとだけ、ジェイド先輩がどうしても咲かせたかったという花を見ていたい。
 ぴんぽーん、という間抜けな音が聞こえて顔を上げた。もともとはインターフォンなんてしゃれたものもなかったオンボロ寮だが、度重なる他寮生徒の侵入、乱入、からの乱闘などの事件を経て防犯上の観点からついに学園長に設置してもらった。奥のほうの部屋までは聞こえないこともあるが、ほとんどが使っていない部屋なので不自由を感じたことはない。残念ながらナイトレイブンカレッジの生徒たちにはアポイントをとりつけるという概念が欠けている節があり、基本的に予告なく寮にやってくる(これはしばらくわたしがスマホを持っていなかったせいもあるのだけれども)。休日の朝にわざわざ訪ねてくるなんて、一体誰だろう。ジャックは訪問前に連絡を入れる貴重なタイプなので除くとして、可能性が高いのはエーデュースだが、彼らの休日の起床時刻はこんなに早くない。
 あくびを噛み殺しながら階段をおりる。そのあいだにぴんぽーん、と再度呼び鈴が鳴った。はいはい、いま開けますよーと言いながら、玄関の戸を開けると、大きな影が視界に入る。
「おはようございます、監督生さん」
「ジェッ……!?」
 幾分寝ぼけていた頭が一瞬で覚醒する。反射的に扉を閉めようとしたが閉まらない。ジェイド先輩が足をねじ込んでいた。痛そうだが、ジェイド先輩はまさか足を挟まれているだなんて思いもよらない、平時通りの笑みを浮かべている。ば、化け物か? わたしがいかに非力とはいえ、全体重をかけているつもりなんだが。
「いやそんな押し売りみたいな!」
「押し売り呼ばわりだなんて悲しいですね。きのこパーティーした仲じゃないですか」
「きのこパーティーした仲でも来るなら連絡くらいよこしてくださいよ!」
「しましたよ。ここ最近読んでもいただけていないようですので、返事を待たずに来てしまいましたが」
「うぐっ」
 ジェイド先輩の正論パンチがもろに決まり、わたしは呻いた。その隙にジェイド先輩はわたしの全体重などものともしない力で無理やりに扉を開き、室内に入ってくる。体を押されたわたしは後ろにバランスを崩したが、ジェイド先輩が背中を支えたため転倒は免れた。あざやかな手さばきだ。押し売りに慣れているとしか思えない。
「ずいぶん不用心な格好ですね」ジェイド先輩はわたしの姿を見て言った。たしかに寝間着はエースがだめにした運動着をもらったやつだし、いまのわたしの装いは控えめに言っても貧相の一言が似合う。そのまま口に出すと、ジェイド先輩は「そういう意味で言ったわけではないんですが」と苦笑いを浮かべた。じゃあどんな意味だっていうんだろう。
「起きたばっかりなんですよ……せめて寝ぐせだけでも直しにいっていいですか? ちょっと待っててください」
「僕はそのままでもいいと思いますよ。親しみがあって」
 絶対思ってない。ジェイド先輩の言葉を無視して洗面所に行き、顔を洗って寝ぐせを整えた。会ってしまえば、意外と話せるもんなんだな、と正直すこし驚いていた。あんなに話したくないと思っていたはずなのに。両手で頬を叩き、どうやってジェイド先輩にお引き取り願うかを考える。まずは目的を聞き出さねばなるまい。あの人が目的を果たさないで帰るとはとても思えない。穏便に帰ってもらうためには、とにかく満足させることが必要だ。ただでさえここ最近の態度でジェイド先輩には不快な思いをさせている可能性が高いし。いや、そもそもわたしが一方的に避けていたところでジェイド先輩にはなんの感慨もないのかもしれないけど。フロイド先輩と違って追いかけてこないのがいい証拠だ。わたしがなにをしようが、花がちゃんと育ってさえいればなんだっていいのだろう。自分でいっててちょっと悲しくなってきたな。鏡に映る自分の顔に「つらいです」と書いてあったので、もう一度顔を洗う。さして泣きたい気分だとか泣きそうだというわけでもなかったが、何度も顔を水で流した。
「何回顔を洗えば気が済むんですか?」
「ヒッ」
 いつの間にか背後に迫っていたジェイド先輩に短い悲鳴が出る。待っててくださいって言ったのに。いや、無駄に待たせたのはわたしか。これ以上は言うまい。タオルで顔を拭き、改めてジェイド先輩を見上げる。
「それで、ジェイド先輩はこんな朝早くからどうしてオンボロ寮に?」
「ああ、それはもちろん、花の様子を見るためですよ」
 予想通りの答えだった。これまでまめに花がどんな状態か、異変があればどういう処置をするのがいいのか、報連相を欠かさなかったわたしだが、つぼみをつけたあたりから急にそれを怠るようになった。ジェイド先輩としてはさぞ現状が気になることだろう。
「そろそろ咲くころではないか、と思いまして」
「……もしかしたら枯らしてるかもしれないですよ? 枯らしちゃったから、申し訳なくて連絡を無視してたのかもしれません」
 投げやりになって言うわたしに、ジェイド先輩はふふ、と笑う。
「あなたなら、花を枯らせばきっと正直に言うでしょう。少なくとも、僕を目の前にしたこの状況で冗談めかしてそんなことを言えるような方とは思えません」
 僕は間違ったことを言っていますか? と、試すような顔でジェイド先輩は首をすこしだけかたむけた。ああ、この人に勝とうとするのは無謀の極みだな。わたしは白旗を振るかわりに、ため息をついたのだった。
 ジェイド先輩を鉢のある部屋に案内する。だいたいはじめてオンボロ寮に来る人はどこかしらで足を引っかけてつまずくのだが(一度デュースが思いっきりすっ転んで大変だった。それをエースがしばらくネタにしたせいで喧嘩の発生頻度がぐんと上がったからだ)、ジェイド先輩は以前オンボロ寮を担保にとられた際にこの建物を隅々まで検分しているので、その足取りは慣れたものだった。二階に上がり、ドアが完全に外れている荒れた部屋に足を踏み入れる。この部屋の窓際に、あの鉢を置いていた。
「床に穴あいてるんで気をつけてくださいね。……ジェイド先輩?」
 部屋の中心まできて振り返ると、ジェイド先輩が部屋の入口で立ち尽くしている。そうか、あの花は魔力に触れると枯れてしまうから、ジェイド先輩は必要以上に近づけないのだ。クルーウェル先生はたしか、魔法士は魔法を発動していなくても微弱な魔力を放っていると言っていた。であれば、近づくだけでも枯らしてしまうおそれがある。
「ああ、本当に咲いたんですね」
 ジェイド先輩は感嘆したようにそうつぶやく。普段はなかなか表面に浮かび上がってこない、ジェイド先輩の感情が垣間見えて、一瞬どきりとした。ジェイド先輩のことだから、なんとかして自分でこの花を育てられないか、いろいろと心を砕いたんだろう。それでもどうしても無理だったから、わたしみたいな素人に預けたんだ。でも、それならそうと最初から言ってくれればわたしだって普通に協力したのにな、と思う。わたしが頼みを断るように見えたとも思えない。魔力に触れると枯れるなんて重要情報、伝えないことで誤って枯らすリスクは大きいはずだ。どうしてジェイド先輩は、そんな大切なことを伝えないまま、わたしに鉢を預けたんだろう。なにか、考えがあってのことだったんだろうか。
 ちょっとだけ意地悪な気持ちになって、「入らないんですか?」と尋ねたわたしに、ジェイド先輩は「ええ、ここで十分ですよ」となんでもないことのように答えた。やろうと思えば、鉢を持ってジェイド先輩の近くに寄ることもできた。ジェイド先輩はわたしがこの花の正体を知っているなんて思いもしないだろうから、「せっかく咲いたんだから近くで見てくださいよ」と、よかれと思ってやったふうを装うことくらいは造作もないように思う。でも、それで花が枯れてしまったほうが、わたしはもっと悲しい思いをするような気がするのだった。わたしはべつに、ジェイド先輩にいやがらせがしたいわけじゃないんだ。ジェイド先輩が「満足しました」と発言するまで、わたしもジェイド先輩も、しばらくそのままの位置で突っ立っていた。
「あとで写真を送りましょうか」
 玄関まで見送りする道すがら尋ねてみると、ジェイド先輩は一瞬きょとんとした顔をした。
「あなたは、本当によくわからない人ですね」
 いちばん言われたくない人に言われてしまった。
「ジェイド先輩には言われたくないんですが」
「おや、僕の考えていることがそんなに知りたいんですか?」
 奇遇ですね、とジェイド先輩は立ち止まる。つられて立ち止まったわたしが見上げると、ジェイド先輩が一歩わたしのほうに距離を詰めてきた。わたしが後ずさると、さらに一歩、もう一歩と足を踏み出す。ジェイド先輩の一歩は大きく、わたしはすぐに壁へ追い込まれた。ジェイド先輩は相変わらずにこやかだが、廊下の照明が逆光となり細かい部分は読み取れない。彼の雰囲気におじけづき、横から逃げ出せないかと視線を外したのがよくなかった。ジェイド先輩はそれを目ざとく見つけて、左ひざを壁にあてて退路をふさいでしまった。よりにもよって寮の出口のほうだ。ぐっとジェイド先輩の体が近づく。わたしはこれ以上後ろにさがれないとは知りつつも、悪あがきのように壁に背中を押しつけた。
「ちょうど僕も、知りたいと思っていたところなんですよ。監督生さんが一体なにを考えているのか」
 これがここにきたもう一つの理由でしてね、とジェイド先輩は言った。わたしの頭はジェイド先輩の鎖骨くらいの高さに位置している。体の大きいジェイド先輩にこうやって顔を近づけられると、離れた場所から見たらきっと彼がわたしに覆いかぶさっているように見えるだろう。
「いや、ちょっとジェイド先輩、顔ちか……」
「ご存じなんでしょう。あの花が一体なんなのか」
「え」
「どこで知ったんですか? まさかあなたに調べがつくとは思っていませんでした」
 知らないです、と言いたかったが、ジェイド先輩は確信したような物言いで、さらにわたしの逃げ場を奪う。正直は美徳ですよ、とわたしの耳に誘惑するような声が吹き込まれて、ぞわぞわと背筋をなにかがのぼっていった。うそだ、絶対思ってないだろ。
「く、クルーウェル先生に聞きました。写真を撮って……」
「ああ、なるほど。納得しました。クルーウェル先生なら、この花のことはよくご存じでしょうね。さすがにそこまでマークしていませんでしたが」
「え、あの、わたしも質問いいですか」
 ジェイド先輩の言いかたがなんとなく引っ掛かったので、小さく手を挙げる。
「どうぞ」
「違ったらあれなんですけど、もしかして、わたしが図書室でいくら探してもあの花が見つからなかったのって」
「察しがいいですね。あの花が載っている図鑑は、現在すべて僕の部屋にあります。植物の図鑑なんて借りる生徒はほとんどいませんから、延滞したところで大した文句は言われません」
「そ、そこまでしますか普通……!?」
「これであなたの質問に答えましたね。次は僕の質問に答えてもらいますよ、監督生さん。どうして僕を避けはじめたのか、教えていただけますか?」
 たたみかけるようにジェイド先輩がわたしに迫る。なぜそこまでしてわたしに花のことを知られたくなかったのか、肝心なところがわからず、わたしの頭は結局混乱したままだ。でも次の質問に答えてもらうには、ジェイド先輩の質問に答えないといけない。ええっと、と視線をさまよわせる。どう答える。バカ正直に言うわけにもいかないだろう。わたしがジェイド先輩に抱いていた、身勝手な期待を白状するのはさすがにはばかられる。面と向かって鼻で笑われでもしたらものすごく悲しい。その情報だけはどうしても死守しなければならなかった。
「さ、避けてなんかないですよ」
「メッセージも返さないのにその言い分が通るとお思いですか」
 再び正論パンチが飛んできて、「ですよね」と早々に諦める。
「往生際の悪い人ですね。さあ、教えてください」
「うう、ジェイド先輩からいただいた花がジェイド先輩には育てられない花だったからです」
「ええ、それで?」
 ジェイド先輩は容赦なくさらに理由を掘り下げようとしてくる。顔をそらしたら、大きな手で顎をつかまれ無理やり正面を向かされた。手袋の無機質な感触が伝わってくる。その手首を両手でつかみ、引きはがそうともがいたがびくともしない。絶望感しかない。ジェイド先輩はもう一度、「それで?」と続きを促した。
「だから、その」すこしでもジェイド先輩から逃れたくて、必死に目線を逸らす。「ジェイド先輩はその植物を育てるためにわたしを利用したんだと思って、ちょっとショックだったんですよ」
「なぜ僕に利用されてショックを受けるんですか?」
「こ、今度はわたしが質問する番ですよ!」
 わたしが質問を遮ると、ジェイド先輩は笑みを浮かべたまま小さく舌打ちした。至近距離で聞こえてしまったそれに震え上がる。ひえんこわい。質問する前にちょっと離れてほしいと要望したら、「その要望を僕が聞き入れた場合、質問に答えたことと同義とみなします」と言われたので諦めた。本当によく頭と口が回る人だ。意外だな、と一瞬思ったがぜんぜん意外ではない。普段は穏やかな顔をしているが、プロポーズで毒草を渡す人なのだ。フロイド先輩とは兄弟だし、あのアズール先輩を補佐する副寮長の座に収まっている。毒草騒ぎがなくともこの時点である程度察せられるべきところだろう。だから結局、それでもこの人に期待を抱いてしまった時点でわたしの負けなのだ。
 いざ質問をしようと思うと、なにを問うべきか迷った。正直、なにも聞きたくないのが本音だったからだ。なにも聞きたくないし、なにも聞かれたくない。あえて無関係な質問をぶつけてみることも考えたが、相手はあのジェイド・リーチである。時間稼ぎにすらならないだろう。事実上の詰みというやつだった。考えをめぐらせているあいだにも、ジェイド先輩の「はよしろ」という視線がぐさぐさとわたしに突き刺さっている。沈黙が痛い。
「ジェイド先輩はどうして」
「はい」
「どうして、わたしの考えていることがそんなに知りたいんですか」
 ジェイド先輩は、このときはじめて言葉を詰まらせた。瞬きの合間にまた笑顔に戻っていたが、いま一瞬べつの顔をしていなかっただろうか。ジェイド先輩のいつもと違う顔。その表情がなにを意味するのか、わたしにはてんでわからない。
「ああ、難しい質問ですね。困りました」
 ぜんぜん困っていなさそうな、むしろ楽しそうともとれる声音でジェイド先輩はそう言った。
「答えるのが難しいならもうおしまいにしましょう! 無理に答える必要はないですよ。さあ解散解散!」
「いいえそうはさせません。だめです。答えます」
 いまだ! と思ってやけくそ気味にまくしたてたが、彼は依然頑なだった。本日二度目の「ですよね」を飲み込む。いまだにジェイド先輩はわたしの顎を解放する気配がない。だんだんと抵抗するのにも疲れてきたので、わたしはほとんどジェイド先輩の手に顎を預けているような気持ちになっていた。正直立っているのもしんどい。逃げないから、と言ったら、たとえば談話室に移動してソファに座らせてもらえたりしないだろうか。いやだめそうだな。わたしの「逃げない」という言葉に対する信用はおそらくゼロだ。なにしろ契約書を砂にした前科つきの女である。仮にオクタヴィネル寮にブラックリストがあったとしたら、上から順にわたし、グリム、エース、デュースが載っていてもなんらおかしくない。レオナ先輩とラギー先輩もかなり危ういラインだと思う。
「わかりました、方向性を変えることにします」
「いや、なんの方向性ですか……」
「好きです、監督生さん」
「は!?」
 わたしは驚きのあまりのけぞろうとして、後頭部を壁にぶつけた。「いっ……!?」と声を上げたわたしにジェイド先輩も驚いた様子で、ついに顎が解放される。後頭部を両手で押さえて体を丸めるようにうずくまると、ジェイド先輩もしゃがむ気配がした。大丈夫ですか、という声が上から降ってくる。
「痛すぎて泣きそう……」
「えっ本当ですか。見たいです。顔を上げていただけますか」
 冷静に考えると、痛すぎて泣きそうという人間を前にして「顔を見せろ」というのは海の魔女も怒りに震えるであろう無慈悲な振る舞いだったと思うが、なにせ痛すぎて泣きそうだったのでそんな余裕がなかった。なにも考えられず、ジェイド先輩の手に導かれるまま顔を上げる。滲んだ視界の先にいるジェイド先輩は、これ以上ないほどの笑顔を浮かべていた。そこでようやくわたしは「あっコイツ、さては人が泣いてるさまを見て笑うために顔を上げさせたな」というところに思い至った。むかっ腹が立つとよけいに涙が出る。ついに目からあふれた涙が頬を伝う感触がした。
「よしよし。痛かったですね」
 ジェイド先輩は子どもでもなだめるみたいに、わたしの背中をぽんぽんと優しくたたいた。しかし依然として顔は笑っている。
「ヴ~~、わらうな……」絞り出すようにして出したジェイド先輩への文句の声も、涙に濡れてなさけない。
「ああ、すみません。監督生さんのことが大好きなので、つい笑顔がこぼれてしまいました」
「それは絶対うそだ」
「監督生さんは僕のことを信じてくれないんですね、悲しいです」
 ジェイド先輩は涙を拭うようなしぐさをした。身長二メートル近い男の泣きまねを見せられて、どう信じろというのか。泣いているのはわたしだ。
「親交を深めたいなんて言って、わたしに花を育てさせたいだけだったくせに」
 ぼろぼろとこぼれる涙を拭いもしないで、わたしはかろうじてそれだけ言った。ああ、こんなの、わたしは拗ねていますと言っているようなものだ。自分のほうこそ勝手に期待しただけのくせして、と頭の隅でかろうじて理性を保ったわたしがささやいている。なにも違わないのに、違う、と言いたくなる。泣きまねをしていた男は、さっきまでなにもないところを拭っていた指でわたしの目尻を拭った。いよいよもって子ども扱いが高じていることに急に羞恥を覚えて、ジェイド先輩の手をどかそうと手首をつかんだ。やはりジェイド先輩の腕はぴくりとも動かない。抵抗の手段をなくしたわたしは、はなして、と弱々しく首を横に振った。
 ジェイド先輩は「種明かしをしましょうか」と言った。
「あなたにあの花を渡した理由は三つあります。ひとつは、僕には育てることができない花をあなたなら咲かせられると思ったからです。僕はあの花が咲いているところをどうしても見たかった。それは認めます」
 種明かしとは、わたしを追い詰めることを指すのだろうか。ジェイド先輩はわたしの髪を梳るように指をさしこみ、後頭部をゆっくりと撫でた。痛みは徐々に落ち着きつつあったが、それでも涙は流れ続けている。
「ふたつ目は、あなたと話をするきっかけを作りたかったからです。親交を深めたいと言ったのは、嘘ではありません」
 本当です、とジェイド先輩はそのままわたしの頭を自分の肩口に引き寄せた。ぼす、とわたしの額がジェイド先輩の肩に着地する。顔が見えなくなったことに少しだけ安堵を覚えて、「最後の理由は」とジェイド先輩に言葉の続きを促した。
「あなたがあの花の正体を知ったとき、つまり、僕が花を咲かせたいがためにあなたを利用したのだと気づいたとき、どんな反応をするのかが見たかったからです。本当は僕の口からこの花の正体を告げたかったのですが」
 その言葉の意味を理解した瞬間、わたしははじかれたようにジェイド先輩の肩を押して体を離した。顔に熱が集まる。だってそれってつまり、ジェイド先輩は最初からぜんぶ知ってたってことだ。わたしが急にジェイド先輩を避けたり、連絡を絶った理由に心当たりがあって、そのうえでわざわざわたしの口から理由を聞き出そうとしていたってことだ。ひどい。いくらなんでも悪趣味がすぎる。
「さ、さいてい!」
 言葉がうまく出てこなくて、結局それだけしか言えなかった。言葉のかわりにジェイド先輩の肩に向かってこぶしを振り下ろす。非力なこぶしは、イライザ姫のビンタと違って痛くもかゆくもないだろう。それでもわたしは何度もジェイド先輩の肩を殴った。ジェイド先輩はわたしの蛮行を止めることなく眺めている。
「好きなんですよ、監督生さんのことが」
「うそだ、信じません」
 真実の中にさりげなく嘘を混ぜるとばれにくいって、エースが言ってた。だから、三つの理由のうちひとつ、つまりふたつ目の理由は嘘なのだ。わたしの言葉にジェイド先輩は「エースくんも余計なことを言ってくれますね」と笑う。まだ笑うか、と思ってこぶしを振り下ろす先を肩から顔に変更したが、あっさり手のひらで受け止められた。くそ。
「すべて本当のことですよ。めずらしい花も見られましたし、監督生さんとはふたりで食事をするほど親しくなれましたし、いまの監督生さんものすごくかわいいですし、僕は満足です」
 この人は、どうしてこの期に及んでまだわたしと親しくなったつもりでいられるんだろう。もしかしてビンタされないとわからないとか? わたしと親しくなることと、わたしがジェイド先輩に利用されたことに対してどんな反応をするのかを見ることを両立できると思っているのも謎だ。冷静に疑問を抱いてしまい、ジェイド先輩の顔をまじまじと見つめる。涙はいつの間にか止まっていた。
「さあ、今度こそ僕の質問に答えていただきますよ。監督生さんはなぜ僕に利用されてショックを受けるのか」ジェイド先輩はそう言ったあと、すこし考えるように間をおいた。「……いえ、せっかくだから質問を変えましょうか。僕たちは回り道をしすぎましたから、もっとシンプルに」
 ジェイド先輩がじっとわたしの目を覗きこむ。もうなにを言われても、わたしの回答の方向性は決まっていた。たしかに我々は回り道をしすぎた。こんな探り合いみたいな質問合戦をしていないで、もっとシンプルに意思を表明するべきだ。
「監督生さん、あなたは僕のことが好きですね?」
「いいえ、嫌いです」
「えっ?」
 目をまるくするジェイド先輩の隙をつき、立ち上がって距離をとる。ジェイド先輩がわたしを振り返り、もう一度「え?」と言った。いい気味だ、という意味を込めて舌を出す。
「ジェイド先輩なんか嫌い」
「え? 本当に言ってます?」
「嘘なんか言ってません。よかったですねわたしの考えていることが知れて! わたしからジェイド先輩に聞きたいことはもうないです。質問終わり。はい帰って」
 体当たりせんばかりの勢いでジェイド先輩の背中を押す。ジェイド先輩はなおもハテナをたくさん飛ばして混乱した様子だが、知ったことではなかった。ぐいぐい押すとジェイド先輩がふらつくような形で前に進んでいく。ジェイド先輩がオンボロ寮にやってきた目的は、花を見ることと、わたしが考えていることを知ることだ。両者が満たされたいま、ジェイド先輩がここにいる意味はない。
「いまそういう流れじゃなかったですよね?」
「予定調和なんて期待しちゃだめですよ、ジェイド先輩。帰ってから自分の胸に聞いてみてください」
 ジェイド先輩は存外おとなしく、ついに玄関までやってきた。いまだ「ほんとに?」と言わんばかりの困惑顔をしているジェイド先輩を玄関の外に押し出して、「あとで写真は送るので」と扉を閉める。がちゃん、とおおげさなくらい音を立てて鍵を閉めてやった。まあ、ジェイド先輩ならその気になれば扉くらい蹴破れるとは思うけど、わたしとジェイド先輩(ないしアズール先輩)のあいだに契約関係がない以上、モストロ・ラウンジでやってるみたいな振る舞いはしないだろう。
 扉に耳をあててしばらく経過を見守ったが、うんともすんともいわないので、ジェイド先輩はおとなしく寮へ帰ったとみえた。ほっと安堵の息を吐く。まだ心臓がばくばくいっている。ジェイド先輩に伝わっていないといいのだが。好きだなんて、あの状況で答えたらおもちゃにされるに決まっている。あの場で唯一わたしにできる防衛の手段は、嫌いと答えることだった。ジェイド先輩の振る舞いに傷ついたのは事実だったし、一概に嘘とも言えない。ただ、本当にジェイド先輩のことが嫌いになったのかというと、それも違うのだった。まだジェイド先輩の言葉に期待している自分が残っている。ここまでされて嫌いになれないって、我ながらさすがにどうかと思う。ジェイド先輩の言う「好き」だって、本当かどうかわからないのに。というか十中八九嘘だから、これはわたしの防衛戦なのだ。いかにジェイド先輩からわたしの「好き」を守るか。負けたら最後、ジェイド先輩に遊ばれて、それで、そのあとのことはあんまり考えたくないな。
 両手で頬をたたいて、玄関に背を向ける。グリムが起きだすまではまだ時間がある。着替えて朝食の準備をしよう。そうだ、その前に花の写真を撮ろう。ジェイド先輩と、あとクルーウェル先生にも見せてあげないといけない。部屋にスマホを取りにいかなくちゃ。

 いまだ扉の前に立っていたジェイド先輩が、「なるほど、興味深いですね」とつぶやいたことなど、わたしには知る由もなかったのだった。