善良なあなたへ


※ネタバレあり。
※死ネタ。夢主が死にます。
※後味はよくない。



 朝方に降りはじめた雨はすでにやんでいるようだった。暗闇の中に雨の香りと、まとわりつくような湿った空気だけが残っている。厚い雲がまだ空に居座っているようで、見上げても星は見えなかった。調査兵団の宿舎はウォール・ローゼの中でも田舎と呼ばれる地域にあり、晴れている日には星がよく見える。
 ベルトルトは一人で宿舎を出た。星も月も見えない夜は明かりを持たずに歩くにはあまりにも暗かったが、日中の記憶を頼りに訓練場へ向かう。訓練場の隅には粗末な小屋があった。対人訓練で使用するはりぼての武器類などを収納する目的で建てられたものだ。とはいえウォール・マリアを突破されて数年、対人訓練の比重は著しく落ちており、小屋自体の老朽化が甚だしいこともあって、この小屋に出入りする人間はほとんどいなかった。
 周囲を見回してみたが、この暗闇では人の気配を探ることなどできそうもなかった。ほどほどで諦めて小屋の扉を押すと、建てつけがよくないのかきしむような音を立てながら開いた。部屋の奥で小さなろうそくが灯っており、それは暗闇に慣れていたベルトルトの目を刺激した。思わず目を細める。あわてて体を小屋の中へ滑り込ませ、扉を閉めた。
「外に漏れたらどうするんだ」
 咎めるような響きを含めつつ、ベルトルトは部屋の奥へ言葉を投げかけた。ろうそくのそばに腰を下ろしていた人影が顔を上げ、「ごめんね」と謝罪を返した。
「今日は雨だし、問題ないかなって思ったの。宿舎からここにくるまでは消してたよ」
 ベルトルトの意に反して、その声は楽しむような色があったが、「えっと、今からでも消したほうがいいかな?」と、一転して細い声がベルトルトの顔色をうかがううように問うた。ベルトルトはひとまず声の主のすぐ近くに座り、しばし沈黙したあと、「まあ別に、いいんじゃないかな」とだけ言葉を添えた。いつものことだが、棚に囲まれたこの空間は、体の大きいベルトルトには居心地が悪い。
 彼女は、という。ベルトルトとは一〇四期訓練兵団の同期であり、調査兵団の同期でもある。訓練兵時代の成績は人並みだったが、快活で笑顔が絶えず、近くにいて悪い気はしない人物だった。我が強くなにかと仲間内での衝突が絶えなかった一〇四期において、こうした人柄には希少価値がある(クリスタも同類の人間ではあったが、あのユミルに気に入られていたという点を多少考慮しなければならない)。訓練兵団の教官は実力主義のように見えて、わりあい協調性を重んじる傾向があり、彼女の人柄に関しては教官も一目置いていたようだった。
 そんな彼女とベルトルトは、不定期に人目を忍んで会う仲だった。
 これは同期の誰もが予想し得ないことだろうと、とベルトルトのあいだには同期というただそれだけの関係性しか見出すことはできないだろうと、ベルトルトは確信を持っていた。日中彼女から合図があれば、夜更けに宿舎を抜け出してここにくる。ベルトルトと同室の男たちは、一度寝つくと朝まで起きない者ばかりで、抜け出すのにさほど苦労はなかった。眠りの浅い、たとえばジャン・キルシュタインやアルミン・アルレルトが同室であれば、難易度はそこそこ高かっただろう。いまのところ誰にもことが露見した気配はない。今日はすこし不安だった。この暗闇と、暗闇の中であかあかと灯るろうそくのせいだ。
「今日も、きてくれてありがとう」
 ひそやかな声がそう告げた。の顔がろうそくの光に照らされて、微笑とともにゆらめいている。曖昧さを感じる顔だった。はじめてここで逢瀬を遂げたときから、は毎回ベルトルトに感謝の言葉をかけたが、ベルトルトはそれに答えたためしがなかった。
 は、普段に比べるとかなりゆるやかな口調で、今日あった出来事を語った。起きたときのこと、朝ごはんのこと、時系列に沿ってくだらないことまで事細かに伝えながら、ベルトルトの手にそっと触れる。ベルトルトの手よりもひと回りもふた回りも小さい彼女のそれはひんやりとしていた。ベルトルトは微動だにしないまま、を受け入れている。
「今日は雨だったから、屋内訓練だったでしょう? サシャとコニーが単調な訓練に飽きてしまって、ぼろみたいな布を──たぶん洗濯場から持ち出してきたんだろうね──かぶって外に出てしまったの。案の定泥だらけになってキース教官に大目玉を食ったんだけど、サシャったら、まったく反省する気配がなくって」
 その出来事はベルトルトも知っていた。男性陣側ではコニーにも反省の色が見えず、ジャンにこっぴどく叱られていたからだ。ライナーやエレンは笑っていたが、ジャンにそれを見咎められて説教の巻き添えを食った。ベルトルトはそれを他人事のように眺めていた。
「サシャね、ぬかるみに足をとられて転んでしまって、怪我をしたの」
「怪我といっても、かすり傷だろう」
 ベルトルトがの話にはじめて反応を返した。喉がかわいているような気がした。
「かすり傷でも怪我は怪我だよ」の声が震えはじめている。「壁の外だったら」
 はそこで口をつぐんだ。その先に続く言葉はわからない。「かすり傷ではすまない」なのかもしれないし、「死んでしまう」なのかもしれなかった。ベルトルトには少なくとも、そのどちらかなのではないかと思われた。
 うつむいてしまったの顔はうかがい知ることができない。二人のあいだに沈黙が落ちる。ぐす、と鼻をすする音がして、が泣いていることに気がついた。触れるだけだったの手が、ベルトルトの手を強く握りしめている。ベルトルトに比べれば幾分も小柄なの体がかたむいて、ベルトルトにもたれかかった。ベルトルトはどうするわけでもなく、なにもない空間を見つめていた。雨上がりの冷えた空気が、の熱を際立たせている。
 ベルトルトには、訓練兵時代のと、今のがどうしても結びつかないでいた。人好きのする笑顔が印象的な少女は、トロスト区での攻防戦のあと、すこしおかしくなってしまったようだ。悲観的な言葉をよく口にするようになったし、癇癪を起こすこともある。なにより、こうして人目を避けてベルトルトと二人で会いたがる。
 訓練兵の中で、のようにおかしくなってしまった者は少なくない。巨人の幻に追われているのか昼夜問わず突然悲鳴をあげる者もいたし、ハンナはいまだにフランツが死んだことを認められていなかった。そうした者たちはとてもじゃないが兵士としては使えない。近く故郷へ帰されるだろう。が彼らと異なるのは、おかしくなるのが決まってベルトルトの前だけだという点だ。
 同期の誰も、このを知らない。
「ベルトルト」
 がふと顔を上げた。鼻声だった。まるい頬が濡れている。
「さわって、おねがい」
 懇願する声にこたえて、ベルトルトはの火照った頬に触れた。あふれ続ける涙がベルトルトの指をつたって流れる。水分をぬぐいとるように指を目尻に向かってすべらせると、はゆっくりと目を閉じた。涙に濡れたまつ毛がつやめきながら震えている。の唇は、ほかのどの部分よりも熱をもっていた。顔を離すと、と目があう。は涙に濡れた目を細め、ベルトルトに笑いかけた。もっとして、とささやくに促されるままもう一度唇を寄せながら、ベルトルトはひそかに安堵していた。もう、いつものだった。
 こうしてと逢瀬を重ねていることも、乞われるがままに触れていることも、ライナーとアニには言えずにいる。自分たちの役割を考えれば、言えるわけがなかった。仲間にも言えない関係を、罪悪感と一緒に受け入れている。その理由は自分にもわからなかった。ただ、この関係をやめたいのかと問われれば、きっと答えに窮してしまうだろうと思う。ライナーやアニに、やめろと言われたらどうだろう。自分はどうするんだろうか。
「ベルトルト?」
 が上の空だったベルトルトの顔を覗きこんでいる。もう泣いてはいなかったが、瞳にはまだ涙の膜がうっすらと残っていた。ベルトルトは無言のまますこし首をかたむけた。それを返事として受け取ったのか、は満足したように笑う。
「ねえベルトルト」弾むような声だ。「お願いがあるの」
 ベルトルトの名を呼ぶその口が、きれいな弧を描いている。指でそっとなぞると、くすぐったそうに身をよじった。ふふ、とやわらかい声がする。
「聞いてくれる?」
 の問いかけに対し、ベルトルトは変わらず答えない。それでも構わないのだろう、は自分の唇に触れるベルトルトの手をとった。手のひらに口づける仕草は、本気でベルトルトをいとおしんでいるようにも見える。ベルトルトの手はやがての首に触れた。華奢な首だ。ともすれば片手でぐるりと首回りをつかむことができるかもしれない。
 ベルトルトの指の下、薄皮一枚を挟んで一定の速度で血液を送り出すリズムを感じながら、の言葉を待った。待っていた。
「わたしね、ベルトルトに殺されたい」
「…………は?」
 にわかには信じがたい言葉に、ベルトルトは思わず身を引こうとしたが、がベルトルトの手をいっそう強く握ったのでできなかった。
「わたしはどうせ近いうちに死ぬよ」と、の声は清々しく告げた。
「訓練でもどんどんみんなに置いていかれてる。ベルトルトもわかるでしょ? わたしはハンナとおんなじで、本当は故郷に帰されるべき人間なの」
 の顔から読みとれるものは限りなく少ない。ベルトルトは息をすることも忘れて、の一挙手一投足を見つめていた。
「でも、わたしは帰れない。わたしの故郷はウォール・マリアの辺境だった。弟がいたけど、逃げる途中ではぐれてしまって、どこにいるのか、生きてるのかどうかすらわからない。父さんは病気だったから、口減らしで奪還作戦に参加して死んだ。母さんはどんどんやつれていって、父さんのあとを追うみたいにして死んじゃった。頭がおかしくなったわたしを引き取る人なんか、もう、どこにもいやしないんだよ」
 すべてはじめて聞く話だった。それがベルトルトとの本来の関係性をものがたっていた。
 はもう故郷に帰ることができない。仮に帰ることができたとしても、故郷と呼べる要素はもうどこにもないだろう。荒廃した家屋と、生い茂った雑草に出迎えられるだけだ。ベルトルトには故郷があって、故郷があるからこそここにいる。ちらりと想像が働いて、わずかに血の気が引く感覚がした。
「壁の外で死ぬのは、いや」
 ぽつりとつぶやかれた言葉が、いやに大きく響いた。
「巨人の手にかかって死にたくない。ねえ、ベルトルト。人間の手で殺してよ。巨人じゃない、ベルトルトのこの手で」
 すがるような目を向けるの言葉に、ベルトルトは考えた。今まで一も二もなく聞いてきたが、これはさすがに即答できなかった。を殺すことは簡単だ。この細い首をこのまま強く締めて窒息させればいい。万一が暴れたところで押さえこめるだけの腕力の差はあるだろう。まして、はベルトルトに殺されたがっている。
「できない……俺にはできない」
 ベルトルトははじめて首を横に振った。想像していたよりもずっと弱々しい声が出て、もしかすると自分は震えているのかもしれないと思った。
「どうして?」と、が問うた。本当に不思議に思っているような声音だった。なぜだろう、ベルトルトはまた考える。奇しくもベルトルトはを含めた壁の中の人類を攻撃する使命を負った人間であった。の言うとおり、はそのうち死ぬだろう。ベルトルトたちがそうするのだ。下手をすれば本当に、ベルトルトに殺されることだってあるのかもしれない(なにしろベルトルトは意思を持って自傷するだけでそこら一帯を更地にできる)。でも、ベルトルトには殺せなかった。
「マルコのことは殺したのに?」
 が再び問うて、今度こそベルトルトはの手を振りほどいてしまった。の宙をつかむような手と、小首をかしげるような仕草はずいぶん幼く見える。
「…………なんで」と、やっとのことで絞り出したベルトルトの問いかけに対し、は「見てたから」と簡潔に答えた。
「見てた、の」
「うん、そう。気がついてなかったんだ」
 は残念そうに言った。緊張からか口の中がからからに乾いていた。動悸がして、にも聞こえているのではないかと思えるほどだった。
「マルコ、とってもいい子だったよね。面倒見がよくて、よく座学を教えてもらってたよ。アルミンの成績で霞んでたけど、マルコだってよくできたし、教えるのもうまかった。実戦訓練でもフォローするのがすごく上手で、全体の利益を考えられる子だった。死んじゃったんだよね。ああ、また悲しくなってきたな」
「どうして、黙ってたの」
「理由はいくつかあるけど、いちばんはそうだなあ。うらやましかったからかな」
「うらやましい……? マルコが?」
「はじめはショックだったんだよ、マルコが死んじゃったし、殺したのは仲間だと思ってた人間だったんだから。壁の中に人間の形をした敵がいるなんて、誰も想像してないでしょ? もうこんなの無理だって思ったよ。わたしたちが生き残る道なんかどこにもないんだって。わたしを含めてみんな結局そのうち死ぬんだって。でもさ、人間に殺されるっていいと思わない?」
 同意を求められたベルトルトは答えに窮した。は一転して笑みさえ浮かべている。夕飯にめずらしくパンが二つ出てきたときのような顔だ。うれしくてたまらない、このことを誰かに話さずにはいられない、そんな邪気のない顔をしたは話を続けた。
「巨人に殺されたところであいつらはなにも感じないんだろうけど、ベルトルトたちは違うもんね? マルコを殺したこと、今でも気にしてるんだよね? 仲間だったんだもんね? そうやって誰かの心に消えない傷を残して死ねたマルコが、うらやましくってしかたないの。だから、わたしも殺してほしかった」
「俺と会ってたのもそのため、なのか」
「そう。でもまさか、気づいてなかったなんて思わなかったよ。わたしを殺す機会をうかがうためために会ってるんだと思ってた」
「……どうして俺なの」
「好きだから」
 は即答した。の目はまっすぐベルトルトの目を見つめている。その目に引き寄せられるようで、ベルトルトはから視線を離せない。
「ベルトルト、好き。大好き」
 力の抜けてしまったベルトルトの腕を持ち上げて、はうっとりした顔でささやいた。再びベルトルトの両手がの首に添えられる。ベルトルトは手の震えを抑えることができなかった。がくすくすと笑っている。まるで、悪魔のようだ。ベルトルトたちがここへくる前に思い描いていた、壁の内側に住むものたちはまさにいまののような存在だった。自分のことしか考えないで、欲望のままに行動する野蛮な人間。独りよがりで、ベルトルトの気持ちなんてこれっぽっちも考えやしないのだ。
「お前は、じゃない……!」
「ぐ、ぅっ!?」
 ベルトルトが手に力を込めると、は目を見開いて苦悶の表情を浮かべた。
はそんなこと言わない! お前はじゃない、悪魔だ!」
 そうだ、は悪魔になってしまったんだ。でなければ、こんなことは言わない。こんな顔はしない。そうに決まっている。
 はベルトルトの腕をつかんで抵抗するような素振りをした。まったく力の入っていないそれは、ベルトルトの良心をかりかりとひっかくようだった。でも、ここでやめてはいけないような気がして、ベルトルトは力をゆるめない。の口からは空気が通る音だけが聞こえてくる。
「くそ……! お前なんか、お前なんか……!」
 涙が止まらなかった。普段の自分からは考えられないほど汚い悪態が口をついて出る。このままが死んでしまえば、こんな苦しみからは解放される。いつもの自分に戻って、明日からまたライナーたちと一緒に戦士として生きていくのだ。そこにはいないけれど、悪魔がいるよりはうんとましだった。人間のはベルトルトの心のうちにいればそれでいい。
「う、うゥ……」
 言葉にも満たない音がかすかに聞こえて、ベルトルトは思わず耳をすませた。改めての顔を見ると、も泣いていた。
「……すき」
 かすれた言葉に、ベルトルトは力を抜いてしまった。急に空気が流れこんできたために、が咳きこんでいる。の首をつかんだまま、ベルトルトは呆然とその様子を見つめていた。現実味のない光景だった。

「ベルトルト、ごめんね。……だいすき」
 やけにはっきりした声が聞こえた。


* * *


 朝から姿を消していたが見つかったのは、正午すぎのことだった。訓練場の外れにある物置の中に横たわっていたの体は冷たく、すぐさま上官が集められる事態となった。は舌を噛んで死んでおり、自害したと見るのが妥当だろうという話だった。現場には火の消えたろうそくが残されていたという。それ以上の情報が末端の兵士に回ってくることはなかった。
 一○四期の兵士にはと仲がよかった者も多く、彼女の死に衝撃を受ける者が少なくなかった。コニーとサシャは口数が少なくなり、ジャンやクリスタも元気がない。平気そうにしているのはユミルとミカサくらいだった。
「まったく薄情なもんだぜ」
 ライナーは呆れたようにそう言った。彼もまた、の死には少なからず思うところがあるようだった。「仲間だろうが」と言うライナーに、ベルトルトは居心地の悪さを感じていた。ライナーと話していると、おかしいのは自分の方なんじゃないかと考えてしまうことがある。
はどうして死んでしまったんだろう」
 寝台の隅で体を丸めながら、ベルトルトはライナーに問いかけた。
「さあな。最近あんまり元気がなかったようだから、そのせいかもしれん」
「そんな風には見えなかったけど」
「表面上はそうだったかもな。少なくとも俺には空元気に見えた」
「……そう」
 驚いた。の様子の変化に気づいていたのは、ベルトルトだけではなかったのだ。が自分にだけ見せていると思っていたのは、ベルトルトの思い上がりだったのか。急に気分が悪くなってきて、ベルトルトは逃げ出すように寝台を降りた。
「ベルトルト、どこに行くんだ」
「手を洗いに」
 宿舎の近くにある井戸へ向かって、水を汲んだ。桶に張った水に映る自分の顔はひどく沈んでいるように見える。
 はベルトルトに謝罪の言葉を投げかけたあと、自ら舌を噛んだ。の首をつかんだままだったベルトルトの腕は、の口からあふれ出た血で染まった。あっという間のことだった。そのあとのことはよく覚えていない。翌朝のベルトルトは自分の部屋の寝台で目を覚ましたし、腕に血はついていなかった。寝相も相変わらずで、コニーは笑いながら「今日は晴れるな」と話していた。ゆうべの出来事はもしかすると夢なのかもしれないと思ったが、が死んでいた場所も、現場に残っていたろうそくも、現実であることを如実に物語っている。
 ベルトルトに殺されたがっていたが、その目的を達成する前に自害を選んだ理由はわからなかった。やっぱりベルトルトに殺されるのはいやだったのかもしれないし、もっと別の理由があったのかもしれない。いなくなってしまったの考えていたことなんて、あとからいくら想像したところで詮なきことだ。そこにあるのは、が自害したという事実だけ。結局ベルトルトはを殺していない。
 桶の水に腕をひたし、ごしごしとこする。
「……落ちない」
 の血が、べったりとついているような気がする。吐きそうだった。ベルトルトはを殺していないのに、よしんばベルトルトが手をかけたとしても、あれはではないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。悪魔が一人いなくなっただけのことなのに。
 の血も、の笑顔も、ベルトルトの頭にこびりついて離れない。

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