夏の入口で出会う


 その日は一段と天気のいい日で、俺はイオと一緒に街の中心のほうに出かけていた。俺がイオと出かける頻度はそんなに高くなくて、というのもだいたい俺の予定が女の子と埋まっちゃうからなんだけど、今日はたまたま誰とも予定が入っていなくて、でもものすごく天気がよかったから出かけようと思ってイオに声をかけたのだった。これでイオが捕まる可能性もそんなに高くはない。なにしろ当日の連絡だし、だいたいは忙しいからということで断られる。でも今日はめずらしく「買うものがあるから」という理由で了承を得ることができた。三十分後に駅で待ち合わせることになり、べつに女の子と出かけるわけでもなし、なにに気を遣う必要もなかったが、女の子との出会いというのはいつどこで待ち受けているのかもわからないので、身だしなみはしっかり姿見でチェックして家を出た。蔵王立はいつでも完璧でないといけないのだ。
 イオの買い物はとにかく単純明快、明朗会計! という感じで(イオっぽい単語だっただからなんとなく覚えているだけで、明朗会計がどういう意味なのかはよく知らない)、ぜんぜん時間がかからない。事前にネットで情報収集を済ませ、ほしいものを狙い撃ちするから、次はあそこ、次はこっちと目まぐるしく、衝動買いという概念もどこかに置き忘れてきている。でも、俺がなにかに興味を引かれて立ち止まれば、一緒に立ち止まってああでもないこうでもないと感想を言ってくれるできた友達だ。その流れでイオが「なかなかいいですね、これ」などと好意的な感想を口にすることもあるが、「買うの?」と尋ねると「一度持ち帰って検討します」と返ってきて、その場で購入に至ったことはない。本当に軸がブレないなあ、と思う。
「なあイオ、ものは相談なんだけど」
「なんですか」
「アイス食べたくない?」
「ああ、いいですね。……どうしてアイスの話で急に改まったんですか?」
「いやなんとなく」
 初夏の陽気が気持ちよかったのははじめだけで、俺もイオもじわじわと暑さにやられはじめていた。やっぱり歩くと汗をかく。俺は基本的に汗が嫌いである。だってダサいから。汗にさわやかさを感じる感性が俺には正直理解できない。イオはあんまり汗をかかないタイプみたいで、ちょっとうらやましかった。という話を以前したところ、汗をかかないと熱中症のリスクがうんぬんかんぬんと言われたのを思い出す。熱中症のリスクとモテなら断然モテだ。でも俺の体はモテよりも熱中症のリスクを選んでいる。俺はこんなにも汗をかきたくないと願っているのに、ままならない。
 コンビニに入ると、冷えた空気が気持ちいい。アイスのコーナーの周辺はさらに涼しかった。
「どれにする?」
「コスパを選ぶなら断然ゴリゴリ君ですね」
「予想通りすぎてなにも感想が思い浮かばねえ」
「でもあれ正直大きくないですか」
「それはわかる」
 でかけりゃいいってもんじゃないんだよな。夏の食べきれない四天王があったらりんご飴とゴリゴリ君はまず間違いなくラインナップに入っているだろう。いや食べれるよ。一応俺も食べ盛りだし、食べようと思えばぜんぜん食べれるけど、飽きちゃうからさすがに。りんご飴とか、見た目は好きなんだけど(特に女の子が持ってると最高にかわいくない? いや俺が持っててもかわいいけど)、あの形状じゃ人と分けるのも難しくて買うのは毎回尻込みする。
「なんか半分こする? 雪見まんじゅうとか」
「あれ夏に売ってるんですか? 雪見なのに?」
「えっ、たしかに」
「雪見なのに」
「二回言うのやめろちょっとおもしろいから」
 結局半分こはやめて、各々でアイスを買った。イオはカップアイスで、俺は棒アイス。棒アイスは見た目が涼しそうでいい。食べやすさ重視でカップアイスを選ぶのはイオらしかった。そのへんにあるベンチはだいたい人で埋まっていたので、植え込みの石段に座ってアイスを食べる。相手が女の子だったらさすがにこんなとこ座らないけど、男相手のこういう気楽さも悪くはなかった。
「ほかなんか買うものある?」
「いえ、ほしかったものはすべて買えました。あとはリュウに付き合いますよ」
「マジか。じゃあなんか服でも見よっかな」
「リュウこそ買いたいものがあったんじゃないですか?」
「んー、家にいるのがイヤだっただけだから」
 天気いいのにもったいないっしょ、と言うとイオはそうですか、と淡白な返事をした。アイスを食べ終わった俺はスマホで周辺の店を調べる。イオはまだアイスを食べていた。イオが食べ終わったらさっきのコンビニに戻ってごみ捨てて、それからあそこのファッションビルで適当にぶらついて解散でいいか。いまどのくらい手持ちあったかなあ、と財布の中身を思い出していると、俺とイオに大きな影がさした。誰かが目の前に立ったんだろうと思い顔を上げる。
 女が立っていた。逆光になっていて顔はよく見えない。影が大きいのは日傘をさしているせいだ。帽子もかぶっていて、ともすれば上品な格好のようにも思えたが、俺の目にはどちらかというと息子の野球観戦にきた母親みたいに映った。有り体にいえばものすごく野暮ったい雰囲気を感じる。いや、勘違いしないでほしいんだが、これはべつに悪口が言いたいわけではない。野暮ったい女子にもそれはそれで別の魅力があることを俺はよく知っている。
「あの」
 彼女の第一声は思ったより若く、力強さがあった。俺が自分を指さすと、彼女はこくりとうなずく。
「あなたの顔と体に興味があります。連絡先を教えていただけませんか」
「は?」
 びっくりしてアイスの棒落とした。食べ終わったあとでよかった。


 彼女は連絡先を教えてほしいと言ったあと、立て続けに「もうこんな出会い二度とない」「あなたを逃がすわけにはいかない」「すぐ終わるから」などと言って俺の腕をつかむのでもうちょっとで警察に通報するところだったが、とどのつまり俺に絵のモデルをしてほしいという話だったらしい。臓器でも売られるのかと思った。ややこしい言い回しをしないでほしい。結局話を聞くことにして、彼女とふたりで近くのカフェに入った。ふたりなのはイオが帰ったからである。彼女はイオに興味がなく、またイオも彼女に興味がなかった様子だった。裏を返せば俺は彼女に興味があったから一緒にカフェに入ったということだが、相手は女の子なんだから当然だろう。
 光の下で彼女をよくよく見ると、言動こそアレだったが案外普通の女の子だった(野暮ったいのには変わりがなかったが)。彼女はというらしい。わりと幼い顔立ちをしていたので年下だろうと踏んでいたのだが、年上だった。郊外にある小さな公立高校の三年生で、美術部の部長をしているそうだ。
「私が部長なのはほかに部員がいないからだけどね」
 俺が年下だと知るや否や、彼女は敬語を使うのをやめた。「あなたも敬語は使わなくていいよ。どうせ学校も違うし無意味」と彼女が言うので、俺はその言葉に従った。そういうことを言う他校の上級生はよくいる。結局学校を出てしまえば、年上も年下も大した違いがないことには俺も同意だ。ただ呼び方には少し困って、さん、と呼ぶことにした。彼女は俺のことを蔵王と呼んだ。俺のことを名字で呼ぶ女の子は少ないので、すこし変な感じだった。
 俺はピーチティー、さんはアイスコーヒーを頼んだ。案の定だが、店員は俺の前にアイスコーヒーを置き、彼女の前にピーチティーを置いたが、俺もさんもなにも言わなかった。店員が立ち去ったあと、お互いの飲み物を無言で入れ替える。フレッシュもガムシロップも入れないまま、彼女はストローに口をつけた。クールかよ。
「さっきも言ったけど、あなたの顔と体に芸術性を見出してしまったので、絵のモデルになってほしい」
 顔と体、という言いかたがずるいよな、と思う。ドストレートで生々しいから、いっそ冗談のように聞こえる。そのくせ彼女の表情はまじめそのもので、むずがゆい気持ちになっている俺のほうがおかしいみたいだ。
「その顔、もしかしてなにか疑ってる? 生徒手帳出そうか」
「や、べつにそういうわけじゃないけど。てか休日にも生徒手帳持ち歩いてんの」
「校則に書いてあるでしょう」
 さんはすげなく言った。こんなまじめの権化みたいな顔をして、その実俺の顔と体を目的に話しかけてきてるというのだから恐れ入る。言葉面が悪すぎるから言いかたを変えてあげたいのだが、本人がそう言っているので変えようがないのだった。
「今度コンクールがあって、その題材に悩んでたの。どうしても男の人が描いてみたかったんだけど、これと思う人が見つけられなくて。でもあなたなら顔も体もぜんぶ理想的。あなたみたいな人もう二度と出会えないと思う。だから私の絵のモデルになってほしい。いろいろ準備もあるから後日場所を変えてやりましょう。連絡先を教えてくれれば諸々の調整は私がやる。あなたはその身ひとつできてくれればいい。謝礼がほしいなら検討するから提示して」
「えーっと」俺が口を挟む暇も許さずまくしたてた彼女に、俺は一瞬目を泳がせる。この場で即答するのはかなり勇気が必要で、俺にはそこまでの冒険心がなかった。
「とりあえず連絡先交換しよう。モデルの話はそれから考えさせて」
 こうして、俺とさんは連絡先を交換し、不思議な交流がスタートした。


 さんは俺の顔と体に興味があり、俺はさん自身に興味があった。だからこれはウィンウィンの関係というやつなのだった。俺がさんにメッセージを送ると、絵文字も顔文字も見当たらない素気ない文章が返ってきた。俺が普段相手にしている女の子であればなんで怒っているんだろうと考える場面だが、さんは終始こんな感じなので新鮮だ。どうでもいいメッセージを送るとバカ正直に「どうでもいい」と返ってくるのもおもしろい。モデルをやってほしいならもう少し付き合ってくれてもいいものを、そういう打算も一切ないらしかった。軟派な俺を嫌っているというわけではなくて、どの男に対してもこういう態度なんだろう。このあいだはビビっちゃったけど、意外に彼女とはうまく関係を築けるんじゃないかという気がした。
 彼女に会うにはやっぱりモデルをしなくちゃいけないので(一回だけモデル関係なく遊ぼうといったら「なんで?」と言われた)、最終的にモデルの件は了承した。さんはビジネスマンみたいにさくさくと日程を調整し、この日にここへきてくださいと位置情報を送ってきた。場所は彼女が通う高校だった。小さい公立高校なので生徒数が多くなく、俺もこの学校にはあまり知り合いがいない。足を運ぶのははじめてだった。最寄り駅からちょっと距離があったので、駅まで迎えにいこうかという彼女の申し出を受け入れて、待ち合わせをすることになった。
「はあ、あの人のモデルやることにしたんですか。あなたも物好きですね。見る限り明らかにおかしい人でしたけど」
「俺に目つけるなんて冴えてる子じゃん。審美眼ってーの? 俺の魅力を存分に発信してもらおうと思ってさあ」
「そうですか。ほかの予定と重ならないといいですね」
 イオはこう言ったが、このとき俺はめずらしく、本当にめずらしくダブルブッキングをすることなく当日を迎えた。たまたま本当になにもない日に彼女の予定が入り、さらにその日だけはやけに日付を鮮明に覚えていて、「ごめんその日は別の予定が入ってて」と何度か女の子の誘いを断った。もしかすると俺なりにけっこう楽しみだったのかもしれないし、彼女の反応に対して恐怖があったのかもしれない。ダブルブッキングからのドタキャンなんてしようものなら彼女がなんと言うのか、皆目見当もつかないもんな。普通に罵倒されそうな気もするし、意外とあっさりじゃあ再調整でと大人な対応をされるような気もする。まあドタキャンするならするで仮病とか使えば普通に信じてくれそうなタイプに見えるけど、俺はいつでも正直に生きていたいので、たぶんそのときは正直に言うと思う。
 その日は土曜日だったが、制服で来い、生徒手帳も絶対持参しろと言われていた。理由は簡単で、職員室で教師チェックが入るからだった。受付票のようなものを記入させられて、さらに生徒手帳もしっかり確認された。厳しい学校だ。さん自身も、制服のスカートはしっかり膝下丈で、着崩す様子は一切なかった。ここまで徹底しているといっそすがすがしい。仮に教師が俺の生徒手帳を見ないで通したとしても、さんなら「ちゃんと確認してください」と言いそうだった。さんみたいな生徒が俺みたいなのを連れてきたら、俺が教師だったら相当びっくりするけど、あの教師はどう思っただろう。俺以外にもこうやって連れてこられたモデルがいたんだろうか。
 案内されたのは美術室だった。背もたれのない木製の質素な椅子と、大きな四角いテーブルが並んでいる。窓は全開で、扇風機が一台、ぶーんと音を立てながら首を振っていた。冷房はあるが、真夏の一部期間に申請をしないと使えないらしく、その申請も部員がひとりしかいない美術部にはなかなか許可がおりないのだそうだ。彼女はがらんがらんと氷が鈍い音を立てる大きな水筒(紙コップつき)や、水で濡らすと冷たくなるタオルなんかを出してきて、「熱中症には気をつけて」と言った。息子の野球観戦にきた母親、という俺の第一印象もあながち間違いではなさそうだ。身ひとつできてくれればいいと言ったのも、誇張表現ではなかったらしい。
「あそこでやるから」
 さんが指した先には、椅子がひとつ置かれていて、周囲にあっただろうほかの椅子やテーブルは教室の端に寄せられていた。あそこに俺が座って、それを見てさんが俺の絵を描くのだろう。
「え、もしかして椅子とかぜんぶさんが移動させたの。言ってくれれば俺も手伝ったのに」
「なに言ってるの、蔵王が怪我したら困る。もうあなただけの体じゃないんだから」
「いや言いかた」
 俺は妊婦さんかよ。ちょっと笑っちゃったじゃん。ちなみにテーブルを動かすのはさすがに顧問の先生に手伝ってもらったらしい。
 美術室の隣にある準備室に作品の一部が置いてあるというので、さんが絵の準備をしているあいだに、彼女が描いた絵を見せてもらうことにした。部屋に入ってすぐ目についたのはさんの作品、ではなく賞状の数々だった。年季の入ったキャビネットの上に雑然と並んでいる。あとから聞いたら、持ち帰るのが面倒で一旦ぜんぶここに置いているそうだ。作品も一緒で、一部の大きい作品以外はほとんどここに置いてあるらしい。作品も雑に放置されていた。賞状を見たあとに作品を見ると、この「すごい」という気持ちが先入観からくるものなのか、本心からくるものなのか判別がつかない。美術の成績で四以上をとったことがない俺には高度すぎる世界だった。ぶっちゃけ俺より圧倒的に上手いということしかわからない。俺より上手いのは当たり前だが。
「賞もらうと学内新聞に載るからね、いろんな人が見にきて同じようなこと言ってくよ。言われなれてるから気にしなくていい」
 正直に感想を述べると、さんは俺に目も向けないでそう言った。めちゃ怒ってない? 大丈夫?
「あなたが私の作品を理解しなくても、モデルは務まるよ。その顔と体である限り」
「それ褒めてんの」
「褒めてるに決まってるでしょう」
 ぜんぜん褒められてる気がしない。
「さあ、座って座って」とさんに背中を押され、椅子に座らされる。彼女は後ろに何歩か下がって、顎に手を当て俺を眺めた。俺が「なんかポーズとったほうがいい?」と尋ねると「黙って。気が散る」と言われた。俺もさんも黙り込むと、扇風機の回る音がやけに大きく聞こえる。いつのまにか扇風機が、俺にしっかり風が当たるように場所を移動させられていることに気がついた。彼女は本当に不思議な女の子だ。
 人に見られることには慣れているつもりだったけど、さんのそれは熱量が尋常ではなかった。極めて真剣に、俺を、俺だけを見ている。ほかのものはまったく目に入っていなさそうだ。こんなに熱心に見ているというのに、よこしまな気配なぞ一切感じさせないのが、もはや仙人のようだと思う。そこまで俺、というか異性の顔が好きなんだったら、もうちょっとそういう気配があってもおかしくないはずなんだけど、本当にただただ絵画を鑑定してますみたいな顔をするのだ。でも俺は絵画じゃないし、女の子がそういう気配もなく俺を見ることにびっくりだし、なんならちょっと気に入らないとまで思っている。こんなこと、さんが知ったらなんて言うだろう。なんとなく目を合わせづらくなって、顔を少しだけ逸らした。黙ってとは言われたが、動くなとは言われていない。そんな屁理屈じみた言い訳を心の中で唱えた。さんが目を逸らした俺を咎めることはなく、「蔵王、そのまま横を向いてくれる」と逆に指示を受けた。
「横顔がものすごくきれい。鼻の形がいいからかな」
 彼女は感心したようにそう言って、座ってスケッチブックを開いた。彼女に対して横を向いているので、俺が彼女を観察するのはなかなか難しい。鉛筆が画用紙をすべる音が、扇風機の音に混じってかすかに聞こえた。結局、さんが俺の具体的な顔の造形に触れたのはこれだけだった。でも言葉のとおり俺の横顔にはずいぶん執心している様子で、何度か違う角度に挑戦しては、最終的には横顔ばかり描いていた。「こんなの時間がいくらあっても足りない……」と両手で顔を覆ってしまったさんに、そろそろ休憩したらどうかと提案する。俺の知る限り、さんはまだ水を一口も飲んでいない。自分の体調には無頓着のようだった。
 案の定さんの顔は赤かった。あらかじめさん用に水を注いであった紙コップは汗をかいていて、一目でもうすっかりぬるくなってしまっていることがわかる。うう、と唸るさんに冷たいほうがいいか尋ねるとそれでいいと言うので、水滴がたくさんついた紙コップをわたした。それを一気に飲み干したさんは、近くにあったテーブルに突っ伏してまた唸りはじめる。急にどうしてしまったのか。扇風機を動かしてさんのほうに向ける。彼女が床に放り出したスケッチブックには、俺の横顔が何枚も描かれていた。人が描いた自分の絵といえば、クラスメイトとペアになってお互いを描いた美術の授業以来だが、ふざけて描いたであろうそれとは比べものにならないほどの出来だ。これをこの短時間で何枚も生産しているさんは、やっぱりただものではない。メモのようなものが書かれているものもいくつかあったが、殴り書きすぎて俺にはまったく読めなかった。
 さんは「あー」と風呂上りのような声を出したあと、「蔵王、今後もモデルってやってもらえる?」と尋ねてきた。ここで俺はようやく、本来モデルをやるのはこれきりのはずだったのかと思い至って、なんとなく勝手に今後もずっとやるのだと思っていた自分にちょっと恥じ入る。相手はさんだぞ、いつもの感覚でいてどうする。
「ほんとは今回で終わりの予定だったんだけど、ぜんぜんだめだ」
「え、俺だめだった?」
「ちがう、そうじゃなくてだめなのは私。見てこれ、ぜんぜん蔵王を表現しきれてない」
 スケッチブックを見せつけられるが、まったくわからない。俺を表現するってなんだ。「うまく描けてると思うけど」と俺が言っても、さんは頑として納得しなかった。そりゃあそうだ。俺みたいな素人の言葉で納得するような子なら、そもそもこの場が成立していない。わかりきった言葉をかけてしまった。さんは自分の髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜて、「とにかく描くしかない」と言った。表現するためには理解が必要なんだそうだ。理解するって、俺のなにを理解すればゴールなんだろう。とてもじゃないけど、さんが俺を理解する日も、その逆も、来る気配を感じない。それとも、さんは違うんだろうか。俺は彼女を理解できないと思っているのに、彼女は俺を理解できると思っている?
「申し訳ないけど、コンクールの期限まで付き合ってほしい」
 この付き合って、は断じて交際してほしいの付き合ってではない。わかってはいるものの、さんの口からその言葉が飛び出したことに俺は思いのほか動揺してしまった。仮にそういう意味で言われたんだとすれば、たぶん俺は了承するだろう。だっておもしろそうだから。でも、これはさんが絶対に言うことがないからおもしろそうと思うのであって、彼女がそんなこと言った日には、きっとおもしろそうとは思わないだろうな、という気がしていた。こういうのなんていうんだっけ、逆説的? よく知らないけど、そういう感じ。
 さんは、はじめて会ったときのように俺の腕をつかみ、じっと俺の目を見た。彼女の目にはしっかりと俺が映っている。もしかして、さんから見えている俺は、俺が思っている俺とはちょっと違うのかもしれないな、と思った。さんの目に映る俺は、いつも見ている俺とは違う気がしたのだ。なぜなら彼女の目がそれはもう輝いて見えたから。だとしたら、さんが俺を理解しようとしているのも頷ける。さんが理解しようとしている俺は、たぶん彼女から見たらものすごくきらきらでぴかぴかで芸術的ななにかであって、まかり間違っても俺ではないんだ、と。
 コンクールの締め切りは夏休みの末までで、かなり先だった。「俺けっこう忙しいから、たまにしかできないかもしれないけど」と前おいた俺に、さんは「それでもいい」と言い、彼女との不思議な交流は継続することになったのだった。俺がダブルブッキングどころかトリプルブッキングの常習犯であることを知る由もなかったさんは、このあと何度もその被害に遭うことになる。これはそんな俺と彼女の、ひと夏の攻防の記録である。

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