ピース


 告白したらふられるどころか相手に逃げられた。
 由布院煙の状況を端的に表現するとしたらこれである。改めてあまりにも悲劇的な状況だといわざるをえない。自分で自分に同情する。
 宙をつかむような形になった自分の右手を見つめる。咄嗟に手は動いたが、足が動かなかった。無言のまま、背を向けて走り去った彼女を追いかけることはできなかった。しなかった、が正しいのかもしれない。そのまま右手で自分の髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜながら、大きなため息をつく。
 なにが同情か。やればできることをしなかったのだから、同情の余地なんかあるわけがないのだ。

「それ、恥ずかしかったとかじゃなくて?」というのは熱史の言葉だった。立と硫黄は「そんな話、前にも聞いた気がするなあ」「なんのことですか」などとやりとりしている。
「なんで追いかけなかったんすか?」
 有基が心の傷口を抉ってきたので、煙はうめきながら腕に顔を伏せる。部室の椅子に体育座りしていると、熱史が「上履き脱いでよ、汚いな」と言うので上履きを脱いだ。煙が脱いだ上履きが床を跳ねてばらばらの位置に落ちたのを見て、熱史がかかとを揃えて置きなおす。いよいよ小うるさい母親のようになってきたので、煙は腕に顔をうずめたまま笑ってしまった。「元気じゃん」と熱史が呆れたように言った。それとこれとは話が別だ。
「好きなら諦めずに追いかけたらいいんすよ! 俺は何度ウォンさんに逃げられても追いかけて捕まえて、思う存分モフモフするっす!」
「いいこと言ってるけどウォンバットに例えられると微妙なんだよなあ」
 うらやましい限りだった。諦めたくないという気持ちがあっても、逃げた背中を追いかけるのはなかなかできることではない。
 煙の身の回りには、ちょっとやる気を出せばできるようなことしか転がっていなかった。だからこれまで、なりゆきに身をまかせて生きてきたし、これからもきっとそうなのだと思っていた。彼女の背中を追いかけて捕まえることは簡単だろう。それこそちょっとやる気を出せば済むことだ。でも、その先はどうか。煙のやる気と彼女の気持ちには相関性がない。煙が百パーセントの努力をしたところで、彼女がこちらに気持ちに傾けてくれる可能性は百パーセントにはならないし、その気がないのであればゼロになにをかけたところでゼロのままだ。返事もなしに逃げられたことは、煙の心にたしかな傷をつけたけれども、彼女を追えばこの先さらに深い傷を負うかもしれない。それは恐怖にほかならなかった。
「どうするの、煙ちゃん」
 熱史に問われたが、返事ができない。きっと熱史には、煙がなにを考えて黙っているのか、想像がついているのだろう。
「俺は追いかけた方がいいと思うっす」
「なんで逃げたのかくらいは教えてほしいっすよね」
「理由が分かれば対処も決まってきますしね」
 後輩たちが口々に言うのを、情けない気持ちで聞いていた。もはや言わせているも同じだった。いたたまれない沈黙が部室を支配する。煙はまたうめいた。
「…………明日」煙が単語だけ吐き出すと、熱史が「うん」と相槌を打った。
「会うことにする」
「明日じゃダメっすよセンパイ! 今日会いましょ今日!」
「時間が空くと決心が鈍りますから、とりあえず今すぐ相手に連絡しましょう」
「お前ら鬼か!?」
「センパイのスマホどこっすか? 俺かわりにメッセージ送りますよ」大雑把に放ったままの煙のかばんに立が手を突っ込む。
「やめろ人のかばんを漁るな」
 煙のスマホにはロックがかかっていない。起動するのがいちいちストレスだからだ。すぐさま椅子から立ち上がり、立からスマホを取り返す。「煙ちゃん裸足だよ」と母親のお小言が飛んできたので、「靴下だからいいだろ」と言いながら上履きを履きなおした。かかとは潰す派だ。これも熱史には不評である。
「そもそも連絡先知らねーし」
「え!?」
「どういうこと? そもそもどういう知り合いなの」
「なんでそこまで教えなくちゃいけないんだよ」
「ここまできたら言ってくださいよ~! メッチャ気になるじゃないですか! イオもそう思うだろ?」
「え? 私はべつに」
 硫黄はそれだけ答えるとノートパソコンの画面に視線を向けてしまった。立も硫黄の発言で興が削がれたらしく、「あとで報告はしてくださいよお」とだけ言ってスマホを操作する。途端にスマホが振動しはじめた。
「やべ、電話かかってきた」
 慌てた様子でスマホを耳にあてながら立ち上がる。「もしもし? メール見た?」という声だけを残して、部室の扉が閉まった。相手は例のごとく女だろう。煽るだけ煽っておいて身勝手なやつらだった。
「帰るわ」
 かばんにスマホを突っ込み、肩にかける。「また明日ね」という熱史の言葉に手を振るだけで答えると、部室の扉を開けた。部室前の階段に立が座っている。
「そんなに怒るなよ~。今度埋め合わせするからさあ。……え? えーっと、今度の日曜、いや日曜はだめか……あー! だからごめんってば!」
 電話口に向かって謝り倒す立の隣を通りすぎ、振り返る。またしても約束をほかの女とブッキングさせたらしい立は、煙に気がつき、ばつが悪そうに謝る仕草をした。口では器用にもまだ電話の相手に謝罪の言葉をつらねている。煙は熱史にしたように手をひらひらと振って階段を下りた。

 相手の連絡先を知らないというのは本当のことだった。なにしろ隣の家に住んでいるから、連絡先を交換する意義を今まで見出せなかったのである。最悪家に突撃すればよいのだから、わざわざ連絡先を尋ねるまでもない。少なくとも煙はそう思っていたし、彼女もそう思っていたのだろう。と、昨日までの煙はそう信じていたけれども、本人に聞いてみたことはないので実際のところ彼女がどう思っていたかはわからない。
 隣の家に住む彼女は、小学校に入学するよりも前から付き合いがある。昔から他人の世話を焼くことに並々ならぬ情熱を注いでいて、同じく昔からやる気というやる気をすべて葬り去り省エネモードで生きていた煙に対してその情熱はいかんなく発揮されていた。煙も幼心に「こりゃ楽でいいや」という感覚でいた部分があり、彼女のおせっかいとも呼べる性質は煙の存在よって増長の一途をたどっていった。さすがに多少羞恥心というものを覚えはじめたのが小学生の後半だっただろうか。意図的に彼女を避けはじめたのは中学生のころだった。煙は男子校を進学先に選び、彼女は地元でもかなり偏差値が高い高校に進学し、電車で毎日一時間弱かけて通っている。
 こうしてずいぶんと様変わりした関係について、煙は大した感情を抱いていなかった。何度でもいうが、どうせ隣の家に住んでいるのだ。二人のなにが変化しようとも、煙にとってそれだけは揺るがない事実であり、また慢心につながる自信でもあった。気がつけばもうずっと言葉を交わしていなくて、その最後がいつだったのかも思い出せないでいた。
 外出先でたまたま見かけた彼女が自分の知らない顔をしていて動揺したのはつい先日のことだ。隣にいたのは高校の女友達だろう(中学は同じだったがあの顔は見かけたことがない)。快活そうな顔をした女友達に腕を引かれ控えめに笑う幼馴染は、煙の知る彼女とはまるで別人だった。いやがる煙のことなどお構いなしに腕をつかんで外に連れ出していたのは誰だったか。遠慮という概念をどこかに置き忘れ、往来にもかかわらず大声で煙の名前を呼んで手を振っていたのは誰だったか。「煙はわたしがいないとだめだね」と言って笑っていたのは誰だったか。昔の幼馴染の姿ばかりが浮かんでは消えていって、今の姿がその延長線上にあることが信じられなかった。
 煙が離れてしまったから、彼女はあんなふうになってしまったのだろうか。ピースをなくしたパズルみたいに、煙がそばにいないから、彼女は彼女じゃなくなってしまったのだろうか。煙がいないとだめなのは、もしかすると彼女のほうだったのかもしれない。


* * *


 帰宅する直前になって、隣の家の門から出てきたのは散々話題になっていた張本人だった。サイズが若干合っていなさそうなサンダルに、Tシャツと短パンという夏らしい軽装は、これから近所のコンビニエンスストアにでも赴こうとしているのだろうとうかがえた。
 目が合ったその一瞬を煙は見逃さなかった。やっとつかんだ腕は想像よりもずっと細い。ひんやりしているのは、室内で冷房にあたっていたせいだろうか。そういえば、昔から腕を引かれるばかりで、自分が彼女の腕を引いた経験はなかったのを思い出す。
 反射的に煙から逃れようとする彼女をその場に押しとどめるのは、とても簡単だった。「はなして」という鋭い声に怯みそうになるという点を除けば、ではあるが。
「はなしたら逃げるだろ、おまえ」
 顔をそむけようとする彼女の肩をつかんで、体ごとこちらを向かせる。うすいTシャツの生地の下から、彼女の肌の感触がなまなましく伝わってくる。緊張しきったその肩は腕と同様華奢だった。小さいころから自分よりも身長が高かった煙を、力に任せて引っぱっていた彼女の印象からはほど遠い。ひんやりしていると思ったのはもしかすると気のせいで、煙の体温が上がっているからそう感じるのかもしれなかった。感覚としては暑いというよりも熱い。
 彼女は目を見開いて煙を見ている。再び顔をそむけるその瞬間までの時間は一体どのくらいだったのだろう。確実に答えられる自信がなかった。
「話が聞きたい。おまえの話」
 これ以上煙が一方的に話をしたところで、彼女が動かない限りどうにもならない。煙ができる話はもうないはずだった。彼女は黙ったままだ。
「話したくないなら、そう言えばいい。そう言ってくれ」
 彼女がそう言うのであればそれまでだ。煙は彼女を解放して、なにもなかったような顔をして帰宅する。自室に直行して、まずは冷房をつけよう。家を出たときのまま開きっぱなしのカーテンを閉め切って、それからベッドに勢いよく倒れこむ。そのまま眠ってしまったら、夕食に呼ぶ母親の声で目が覚めるだろう。制服を着たまま眠った煙のことを母親は叱るに違いないが、普段からままあることだ。夕食を食べて風呂に入って、携帯ゲームなんかをちょっとプレイしてから、日付が変わるころには就寝する。そうしたらまた変わらない明日がやってきて、それで、ただそれだけだ。
 きっと、なにもなかったような顔なんかできないだろうけれど。
「変な言いかたするのやめてよ……」
 やっと口を開いた彼女は、なさけなく眉を下げながら、震えた声で訴えた。その姿から読み取れる感情がわからない。よく解釈すれば羞恥のようにも見えなくもなかったし、悪く解釈するなら嫌悪のようにも見えた。
「変な言いかたってなんだよ」
「だって、そんなの、わたしと話したいみたいじゃん」
「はあ? こっちはそのままそう言ってるんですけど」
 でなければ、わざわざ逃げようとするのを追いかけて捕まえたりなんかしない。柄にもないことなんか、しなくたっていい。去るものは追わないほうが、圧倒的に楽だ。そうやって生きてきた煙が言うのだから、そうなのだ。
「おかしいでしょ……」
「そうだよ」と、半分やけくそで同調した。彼女の言うとおり、由布院煙はおかしい。
「俺の性格、知ってるだろ」
 彼女は口をつぐんでしまった。瞳がゆれている。その姿は、やはり煙が知っているものとはすこし違っていた。そして、彼女が見ている煙の姿もまた、彼女が知るそれとは違うのだろう。
「……うざくない?」
「は?」
「わたしのこと、うざくない? めんどくさくない?」
「どうした、突然」
「答えてよ」
 話が聞きたいと言ったのに、なぜ逆に質問を受けているのか。強いて言うのであればその質問こそまさに、といったところである。はあ、とため息をつく。昨日のアレをまた繰り返さなければいけないのかと思うと、憂鬱だった。今度こそ逃げられないことを祈った。
「おまえのそのめんどくさいところが、好きなんだよ」
 彼女の肩に額を押しつけた。顔が見たくないのか、顔を見られたくないのか、おそらくその両方だった。身長差がかなりあるから、第三者から見ればひどく不恰好に見えただろう。
 彼女はしばらく黙りこんだ。このまま彼女がなにがしかを口にする前に、時間を止めてしまえたらどんなに楽だろうか。あるいは、時間を止めるなんて非現実なことを望まなくとも、昨日の彼女と同じように、自分が今すぐ走って逃げればすむのかもしれなかった。────本当に? 引き返せるほどのスペースが、背後に残されているだろうか。彼女に逃げられないように、逃げられないようにと追いつめてきたつもりだったけれども、煙もまた逃げ場を失っているに等しかった。
「…………うれしい」
 彼女の声がしっかりと空気を震わせて、煙の耳もとをくすぐった。弾かれたように顔を上げると、彼女が笑っている。眉尻は相変わらず下がっていたけれど、たしかに笑顔と呼べる表情だった。
 これだ、と煙は思う。きっと煙はこれが見たかったのだ。幼いころ、常に煙の隣にあった光景。知らぬ間に遠ざかってしまった景色が、いま目の前にある。
 パズルはやっと、元の姿を取り戻したのだ。

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